はるそなえ
青空は乳白色がかって、まろやか。吹く風の少しの冷たさが、ようやく訪れた柔らかな温もりと陽の匂いを引きたてる。
その下に建つ藁ぶき屋根の家から出てきたのは、およそそういった建物とは縁の無いように見える、きらびやかな衣装に身を包む女。黄の衣に黄緑の背子、地をこする裳は桜色で帯は赤い。髷は結わず、金の髪飾り一つつけたたおやかな髪が春の風に揺れてさらさら。
見た目はまだ若い女は家のすぐ傍にある梅の木に手を伸ばす。甘酸っぱい、強い香りを放つ花々を覆うようにかけられた薄布をとる為だ。その布は触れたらふっと溶けて消えてなくなりそうな位に薄く、そして滑らかなのだった。昨日までは白かったその布は花の色を借りて淡い桃色になっている。手に取り、満足げに笑むと女はその場を後にした。
さらさらと流れる川の清水の中、鮮やかな緑の藻が踊り、魚がその上を泳いでいる。その川を下に見ながら歩く女は、土手沿いに立ち並ぶ木の内の一本に静かに触れれば人には分からぬ気の脈動を感じる。今はまだ春の陽気にうとうとしているその木も、近い内に夢のように美しい薄桃の花を咲かせることだろう。静かに目を瞑れば、その光景を思い浮かべることが出来る。もうそれは何百年と見てきたものだから。けれど実際見るものはそれよりももっと鮮やかで、美しいのだ。
川へと続く緩やかな傾斜の土手を埋め尽くすのは、菜の花。黄色がかった緑の茎につくその花の黄色いこと、黄色いこと。春以外の誰も作ることが出来ない、この世で最も美しく、鮮やかな黄。太陽より黄色く、だが激しくすさまじい熱はなくとても優しい。土手の黄色の中にちらちらと覗く、緑。この色がないと少し寂しい。桜の季節になれば水晶、黄と緑のまばら模様、薄桃、まろやかな青、自然製の反物が重なり広がる。春だけが作れ、春だけが知る優しく柔らかく、暖かなそれが披露されるのはもう少しだけ先のこと。今はまだ薄桃のそれがないから、不完全なのだった。
女はそれを見る日を心待ちにしながら土手を降り、菜の花の中に飛び込む。黄に溺れ、黄に満たされる。花の周りを虫が飛び、春の訪れに喜びうち震えている。その内の一匹が女の肩に止まったが、女はそれを嫌がることなくそのままにしておいた。菜の花が、私を、私をどうか、と呼びかける。その声を聞きながら女は目についた一本にまず手をかけた。
「菜の花よ菜の花。春神様のもとへ参りましょう。美しいままで、美しいままで」
そう言って少し力を入れただけで、菜の花はすうっと地面から離れた。まるで自ら抜けたかのようだ。女は次々と菜の花を摘んでいく。一つ、二つ、黄に緑陽を浴びて鮮やか。
そして胸の中いっぱいになるまで摘んでから、桃の布でそれをまとめてくるむ。黄に緑に桃、三つの春の色が女の腕に抱かれて。女は満足気に笑むと土手を上がり、再び歩き出す。
春の光と色に満ちた道を歩いているのは彼女だけではない。他にも同じように美しい衣を身に纏った女性が歩いており、そしてその誰もが何かを手に持っている。その内の一人――黄緑と鶯色の衣を着た女が声をかけてきた。鳥の歌声の様に弾んだ声で、幼い顔立ちは愛らしい。
「菜の花ですね、とても綺麗! なんて鮮やかなんでしょう、私菜の花ほど鮮やかな黄色を知りません。そこに生えているのをお摘みに?」
「ええ、そうです。今年は菜の花にしようと決めていましたから。貴方は何を?」
「私は春の鳥達の歌声を、こちらに。去年は春の小川のせせらぎを供えました。貴方にもお聞かせ出来たら、と思うのですがそうしたら春神様にお供えする前に全て零れ落ちてしまいますから」
そう言って女は手に持っていたはまぐりを優しく撫でる。その内は金で塗られていて、桜の花びらが描かれているという。その貝の中に彼女は春の鳥達の歌声を閉じ込めたのだった。そうしてはまぐり等の貝殻の中に歌声や川のせせらぎ、花の香を入れたものもお供えものの定番の一つである。二人の横をすうっと通り過ぎて行った女の手には漆塗りのお椀、蓋をして慎重に運んでいる様子。はて中に入っているのは何だろう、花びら落ちた川の水か、或いは春に咲く花で染めた水か。
他にも土筆、春の歌綴った紙を結んだ梅の枝、春の霞の入った硝子瓶、白から紅へのグラデーションの美しい紅花馬酔木、春の柔らかな日差しを閉じ込めた硝子瓶、鈴蘭水仙、鶯の糞を詰めた小箱、今が季節の花でいっぱいのバスケット、春の景色を閉じ込めた着物、菜の花の色を移した布、花冠、春の風を巻き取った棒を入れた筒、……皆それぞれ思い思いの春を手にしているのだ。
遠くの山はまだ少し寂しい色をしていたが、やがて桜に染まり、そしてそれが終われば目にも鮮やかな緑でいっぱいになることだろう。もう少しすれば筍はぐんぐんと伸びていき、その皮を使った人形が供えられ始めるだろう。春の陽気に誘われて、野原で、桜の木の下で、うとうとと眠る動物や乙女達の姿もあちこちで見られるようになる。冬の間眠っていた様々な生命が目を覚まし、その間溜まりに溜まっていた命の輝ける力を解放し、春にすさまじい煌めきを与えるだろう。
鶯色の衣の女と話している間に、梅園へと入っていく。白や桃、鮮やかな紅の花咲き乱れ、茶の枝、それからふっくらした腹の愛らしいメジロ、どこかで鳴く鶯はほうほけきょ、春を告げる。見上げれば、青空中に枝が張り巡らされ春の気を送っているように感じられた。そして梅の花が天空を舞い、赤に白に飾る。
一人の女が一本の梅の木の下に立っている。その手には漆塗りの箱。外は黒く、中は赤く。きっと蓋には美しい細工が施されていることだろう。
「梅の花は枝と分かたれても美しいままで、美しいままで。褪せぬその色を春神様にお見せして」
そういうと一枚、二枚、紅はらはら、箱へと落ちる。あるものは花びら、あるものは花ごと。女はあらゆる色の梅の木の下に行っては声をかけ、そしてその声を聞いた梅は春神の目を求めて落ちていくのだった。そうして最後蓋をして、赤い紐で結んでおしまい。また別の女は手のひら程の大きさの壺の蓋を開け、梅の香をその中に閉じ込め、また別の女は枝を手折る。それを咎める者などあるはずもない。枝自身もそうされることを望んでいる。あちこちの枝を折って、そしてそれを春空から貰った色を使って染め上げたリボンで束ねる。
春を持ち、この梅園を歩くのは人の姿をした者だけではない。鹿や烏、猿や犬や猫、狸、鶴、狐、リス、鷹に象等の動物達も各々『春』を持ち歩いている。誰もここでは誰かに襲われることを恐れていない。誰かを襲う気もまるでないのだから当然だ。この動物達の内の半分は、別の層からやって来た。彼等生き物はここへと至る道のある場所を知っているのだ。道を知らぬのは人間だけである。人間がいないからこの世界は美しい。
フキノトウを沢山入れたという箱を背にくくりつけ歩いていた鹿と話し、鶯の衣の女と他の女が持っている『春』について語らっている内に梅園を抜け、春の野に挟まれた道を行った先に目的の場所があった。
桜の模様の掘られた黒く光る石で造られた台座の上に、巨大な女人の像が鎮座している。ふっくらとした体に、柔らかな曲線が美しい薄布の衣を身に纏い、頭には僧侶頭巾を被り、首には大きな珠を連ねて作った首飾り。優しい微笑みは大仏のそれによく似ている。
女も、他の者達もその像の前まで歩きそして一度持っていたものを置き、礼をして、それから目を瞑り手を合わせる。十秒程そうしていると、女は台座にある入口から像の中へと入って行った。
像の奥には朱塗りの欄干美しい階段があり、そちらを皆上っていく。階段を上れぬ一部の動物は他の者に代わりに運んでくれるよう頼んだ。お願いします、と言われて断る薄情者はここには一人としていない。甘い香りの香の焚かれた像内はそう明るくなく、あちこちに設置されている橙色の灯りだけが頼りだ。女は像の内を囲むようにして座っている、この像――春神様と同じ格好をした女達が一斉に唱える有り難い詞ことば(人間にはお経のように聞こえることだろう)を耳にしながら、階段を静かに上っていく。
只管続く階段、延々と続く低く抑揚が控えめな詞、ぼおんぼおんと時々響き渡る鐘の音、高さ以外まるで変わらぬ景色、香の匂い、階段を上る度規則良く響くかつかつという音が女の心を無にしていく。雑念を以て春神様に春を供えることが無いように、そうなるように仕向けているのだった。
そして最後の一段を上り終わった瞬間、女は広い空間に立っていた。その空間は像内の面積よりも明らかに広く、ここが像内であってそうではないことを物語っている。
風に揺られる草原は緑の海、空は薄桃色で雲は仄かに虹色、螺鈿めいて美しい。あちこちに立っているのは赤い実をつける神樹。春神様はこの実を喰らい生きているとされていた。
その草原にずらりと並んでいるのは、皆が春神様にお供えした『春』である。
数は数え切れず、だがそれでも今はまだ少ない位で、春と呼ばれている間は際限なくここに多くのものが供えられる。女もこの先何度もここを訪れ、春を供えるつもりである。
女は跪き、手に持っていた菜の花の束をそうっと置き、それから手を合わせる。
春神様、春神様。御身に春の花奉る。
女がそう心の中で念じると、どこからか「ありがたく受け取りましょう。貴方に良い春あらんことを」という、慈愛に満ちた女の声が聞こえた。その声を聞く度、ここへ来て良かったと心から思うのである。
そうして春を供え、再び女は階段を下りて我が家へと帰っていく。これからの春のことを思いながら。
女の、そしてこの世界の春はまだ始まったばかりだ。