彼女が幻想を嫌った理由
『彼女が幻想を嫌った理由』
僕は彼女の絵を見て驚いた。キャンバスに描かれていたもの。それは「よく分からないもの」だった。
色は茶色、橙色、クリーム色、黄土色といった茶・黄色系統を主に使っている。
それらの色を使って、不思議な形がいくつも描かれている。幾何学的な模様、四角や丸といった図形を幾つも組み合わせており、中央にはラグビーボールを横に半分に切ったような図形が幾つか並んでいる。そこにもびっしりと謎の模様がびっしりと描かれていた。
その背景に描かれているのはどうやら空らしい。美しい水色一色で塗られている。
しかしそこに浮かんでいる雲らしきものは矢張り妙な形をしていて、青と白の歯磨き粉をのたうち回らせた様な感じなのだ。
世の中には様々な絵の種類がある。中には抽象的なもの、デザイン的なものもある。だからこういったよく分からない感じの絵だって、この世には沢山存在する。
(そう不思議ではない。けれど……)
僕は口をぎゅっと固く結んだままキャンバスに筆を走らせ続ける彼女の姿を、じっと見つめた。
目の前に居る彼女は生粋のリアリスト。写実主義者だ。目の前にある物を、ありのままとらえ、描くのが彼女のスタイル。
絵においてもそうだが、普段の生活においても彼女は「現実」を何より大事にしていた。「夢」とか「幻想」とか、そういった言葉を嫌悪……いや、憎悪しており、そういった単語を聞いただけで不機嫌になるのだ。頭は良いが、読書はあまりしない。作られた話を好まないからだ。
そんな彼女がこんな図形や紋様を組み合わせた不思議な絵を描くなんて……。
呆然としていた僕の存在に気づいたらしい彼女が、振り返って僕の顔を見た。
「変な顔。どうしたの」
「それ……何を描いているの」
「ああ、これ。アンコールワットよ」
「ア、アンコールワット!?」
僕は思わず大声をあげる。五月蝿そうに彼女が僕を睨む。すさまじい眼力に体を小さくしながら、僕は改めて彼女の絵を見る。
アンコールワット。誰でも一度はその名を耳にしたことがあるだろう超有名な寺院。
(確かにアンコールワットに見えなく……も……な……いような……)
色合いは確かにそれっぽい。けれどそれ以外は……うーん。
「君がこんな絵を描くなんて珍しいね」
「そうね。きっと二度と描かないわ」
「今日はどうして描いたの?」
「別に。何となくよ」
「何となく?」
「そう。何となく」
彼女はため息をつき、筆を置く。
「……吐き気がする。嫌いよ、夢幻とか幻想とか、ファンタジーとか。大嫌い。大嫌い」
「君はどうしてそんなにも非現実的なものを嫌うの? どうして」
それが不思議でたまらなかった。彼女はしばらく黙ったまま僕の顔を見ていたが、やがてくるりと背を向け、再びキャンバスを見た。
しばらく沈黙が続いた。
「……私の両親は、この世界の人では無い」
「え?」
「外国、って意味じゃないわよ。異世界。こことは隔てられた場所にある世界の住人だった。母さんはその世界ではお姫様で、アンコールワットそっくりの城に住んでいて、父さんはそこで騎士として母さんに仕えていた。二人は恋に落ちたけれど、それはすぐばれてしまった。二人は手を取り合い駆け落ちし、この世界まで逃げてきた。……そして私が産まれた。けれど私が六歳の時、追っ手に私達は見つかり、父さんは私の目の前で蛙に変えられてしまった。国の姫を奪った彼に対する罰として。優しかった父さんは私達のことを忘れ、家を飛び出した。今はどこにいるか分からない。どこかの草むらでげろげろ鳴いているかもね、今頃」
彼女は早口で、あくまで淡々とそんなことを話す。僕は何が何だか訳が分からず、ただ呆然としているしかなかった。
「母さんは蛙に変えられずにすんだわ。けれど父さんを失ったショックですっかり呆けてしまって……今では私の名前すら忘れてしまった」
目の前のキャンバスを見つめていた彼女は、突然置いていた筆を乱暴に掴むと、絵に大きな×印を描いた。僕は「あっ」と思わず声をあげる。
「信じられない夢物語。……嘘だと思いたい話。でもそんな夢物語がこの世には存在している。私は信じたくなかった、こんなありえない話……こんな非現実的な話、あるわけないって! だから私は非現実的なものを否定することにしたの。そうしなければ、頭がどうにかなってしまいそうだったから」
「そ、そうだったんだ……」
何と答えれば良いのか分からず、僕は戸惑う。
そんな僕を見ていた彼女が笑った。静かに、笑った。
「……嘘よ、嘘。そんな非現実的な話、あるわけないじゃない」