箱を開けるまでは(40.思い出す)




 ---彼女を死なせたくない?それならば、この箱の中に入れればいい---

 そう私に言った男が、どんな男であったのかはもう覚えていない。名前も、多分聞いていなかったのだと思う。だが、そんなことは私にとってはほんの些細なことだった。
 男の容姿も、男の名前も、私にとってはどうでもいい。私にとって大事だったのは、彼が発した言葉であった。
 男は、私に黒くてひんやりとした、長方形の箱を与えた。人一人がすっぽりと入る位の大きさだ。

 ---貴方の恋人だったというその娘を、この箱の中にいれ、蓋を閉めなさい。いいですか、一度閉じたら、二度と開けてはいけませんよ。開けたら意味がなくなるのですから---
 どういうことだ、と私が問うと男は微かに笑みを浮かべた。

 ---彼女は生きている。生きたまま、箱の中にいれる。そして、中を覗かない。……蓋を再び開くまで、中に入っている娘は「生きている」ことになる。蓋を開けて、その娘が死んでいることを確認するまで、娘の死は確定しない。確認せずして、物事を決定づけることはできない。娘は「死んでいない」状態で箱の中に居続けることができる。でも、数日後その蓋を開けてしまえば……全ては台無しになる---
 それは、酷く難しい話のように思えた。それでいて、甘くてとろけてしまいそうな、胸の中が熱くなるような話だった。

 ---もう、娘と二度と会うことは叶わない。それでもよければ、彼女を箱の中にいれればいい---
 蓋を開けない限り、彼女は「永遠」でいられる。誰も娘の死を確定づけることはできない。できなければ、彼女はいつになっても「死なない」ああ、それはなんと素晴らしいことだろう。
 どうせ、このままでは彼女は死んでしまう。最早、誰も彼女を助けることはできないのだ。どれだけ多くの金を積んで、有能な医者に手術を頼んでも、無駄だ。
 彼女は、数日後には死んでしまう。私は、彼女の死んだ姿を見ることだけは嫌であった。それは、苦痛以外の何物でもない。
 ああ、ならば、箱の中に入れてしまおう。彼女に触れることができなくなることは辛いことだ。けれど、彼女の死に顔を見るよりはずっといい。
 彼女は死なせない。箱の中で永遠に生かし続ける。
 私は、その男からその箱を譲り受けた。男は、去り際に何か私に告げていた。ああ、けれど何と言っていたのか、もう覚えていない。まあ、覚えていないのだから、大したことではないに違いない。

 私は、早速ベッドに寝かせた彼女を抱きかかえた。
 彼女の肌は青白く、ひんやりとしている。これが、いつも暖かな笑顔を私に向けていた彼女だなんて、信じられなかった。体温も下がってしまって、血行も悪くなって。目も覚まさずずっと眠り続けている。もう彼女の声を聞くことも叶わない。ああ、あの愛らしい声でまた歌ってほしい。そして私は、彼女の傍らで草笛を吹くのだ。けれど、もうそうすることはできない。
 死んだように眠る彼女の体は、驚くほど柔らかかった。薬品の匂いが染みついているのか、妙な匂いすらする。
 私は、彼女に優しく口付けた。彼女と初めてこうしてキスした時のことを思い出した。彼女は恥ずかしそうに頬を染めながらも笑っていた。だけど、今の彼女はこうして唇を重ねても、うんともすんともいわない。ただ眠り続けているだけだ。
 私は、蓋を開け、彼女をひやりとした箱の中に優しく入れた。

 さらば、愛しき娘。
 この箱の中で永遠に生きていておくれ。君は、死なない。私は蓋を決して開けない。そして、他の誰にもこの箱の蓋をあけさせないから。
 数分間、私は彼女の眠った顔を眺め続けた。そして、静かに蓋をした。

 これで、彼女は「死なない」永遠に、生き続けるのだ。
 私は、そうしてこの箱と……いや、彼女との二人きりの生活を始めた。

 食事をする時も、読書をする時も、寝る時も、ずっと彼女の傍に居続けた。時々、彼女に話しかける。勿論、返事は返ってこない。それでもいい。彼女は箱の中で生き続けている。それだけで、私は幸せだった。

 周りの人々は、私に何か言い続けた。けれど、その言葉は少しも耳に入ってこなかった。彼らが、何を必死になって言っているのかさっぱり分からなかった。分からないのだから、きっと大したことではないのだろう。
 生きた彼女を、狭い箱の中に閉じ込めた私のことを、悪者と罵倒しているのかもしれない。冷酷非情、血も涙もない男、と。
 彼らは、何も知らないからいえるのだ。私は彼女を愛している。だからこそ、私は彼女を生かし続けているのだ。けれど、きっと彼らに話しても理解されないだろう。低俗な彼らには、きっと私の言葉など理解できないだろう。
 誰にも理解されないでいい。彼女が生きていれば、それでいいのだ。

 「今日は、君の好きな林檎を買ってきたよ。ルビーみたいな色をしているだろう? ああ、そういっても君には見えていないよね、ごめん。今から、アップルパイを作るよ。甘くて、シナモン多めの、君が好きなアップルパイを。私は、甘さ控えめの方がいいのだけれど。でも、君が好きなら、私はとても甘いアップルパイを喜んで作るよ」

 「面白いんだ、今読んでいる本。ほら、この前私が言っていたお気に入りの作家の最新作だよ。予想できない展開の数々、ページをめくる手が震えてしまうくらいに、興奮しているんだ、私は」

 「今日は雨だね。雨の日は憂鬱だ、本当に。そうだ、君にこの前買ってもらった傘なんだけど、この前店の傘たてに入れていたら、盗まれてしまったんだ。とても気に入っていたのに。矢張り、ああいう傘たてに入れるものではないね。すぐ盗まれてしまうから」

 ずっと、そんなことを彼女に語りかけていた。最近は、彼女の笑い声が聞こえるようになった気がした。その声は、私の大好きな声だった。
 愛しているよ、そういって私は彼女の眠る箱に、毎日口づける。そうするだけで、私の胸は幸せでいっぱいになった。

 こんな日々が、いつまでも続くと思っていた。

 だが、しかし。その日々は、ある日突然終わりを告げるのだった。
 私は決して蓋を開けなかった。蓋を開けずして、全てが終わったのだ。

 ある日私は、部屋の掃除をしていた。床も、窓も綺麗にし、最後に部屋にある机の整理をしていた。いらない書類、お知らせの紙、広報などがごちゃごちゃに入っていた。私は、まだ必要なものともう不要なものを分けていた。
 最後の紙を出したとき「それ」は現れた。
 
 「それ」は、一冊の日記帳だった。赤い日記帳には金色の鍵がついている。
 私は、その日記帳のことをすっかり忘れていた。何でこんなところにいれていたのだっけ。いつ、書いたものだったろう。
 私は、机の引き出しの中に入っていた鍵を使って、その日記帳を開いた。
 その日記帳は、存在を忘れるのはおかしいと思えるくらい最近のものだった。私は、ページを開いていく。ページを開くたび、吐き気がして、頭がずきずき痛む。それでも、私はページをめくり続ける。

 これは、開けてはならないものだ。駄目だ、これ以上ページをめくってはいけない。めくっては、絶対にいけないのだ。
 このままでは……。
 彼女の体が弱っていく様子が、そこには詳しく書かれていた。痛々しく、苦しい文章が書き連ねていある。ページをめくればめくるほど、書かれている彼女の容態は悪化してきている。
 私の手は、ぴたりと止まった。見ると、自分で自分の手を押さえつけていた。開けまいとしているようだった。

 開けてはいけない。

 ---決して、開けてはいけませんよ---
 男の声が、甦る。けれど、もう遅い。

 私は、次の……最後のページを開いた。

 『かのじょが しんだ』
 そこには、それだけ書かれていた。
 それだけで、十分だった。私の世界は、音を立てて崩れた。

 思い出した。そう、彼女はもう死んでいるのだ。私に愛を囁きながら、幸せだったといいながら、彼女は息を引き取ったのだ。私は、この目で、彼女が死ぬ瞬間を見届けていたのだ。
 彼女の死が信じられなかった私は、彼女をベッドで寝かせ続けた。彼女が、目を覚ますことを願って。だが、そんなことが起きるはずもない。彼女は死んだのだから。
 ある日、私は酒場へ行った。そして、そこであの男に出会った。
 男は私に箱の話をし、親切にその箱を家まで届けた。

 私は、彼が去る前に言った言葉を、ようやく思い出した。

 ---彼女は、死ぬことはない。……最も、その彼女というのが、今も本当に生きていればの話ですがね。すでに死んでいれば、箱は何の意味もなさなくなる。貴女の彼女は本当に今も生きているんですかね---

 そう、あの箱に死人を入れても意味はない。死んでいることが確定した人間は、箱に入れようが、海に沈めようが、土に埋めようが死んだままなのだ。
 彼女は、箱に入れる前からもう死んでいた。だから、今箱の中で眠っている彼女も……。

 死んでいる。

 周りの人たちが、何を言っていたのか少しずつ思い出していく。

 ---もう、やめなさい。彼女は死んでいるのよ---

 ---いい加減、彼女を安らかに眠らせてあげてくれ。このままでは、あまりに可哀想だ—

 ---何に入れたって、彼女が死んだという事実は変わらないのよ---

 私は、崩れ落ちた。何故思い出してしまったのだろう。思い出さなければ、彼女は「永遠」だったのに。いや、死んでしまった以上、私が忘れていようがいまいが、彼女は死んでいた。
 泣くしか、できなかった。

 彼女の死を忘れ、彼女の死を否定し、彼女の魂を、肉体を、辱めた私。私は、彼女を愛しているといいながら、ずっと彼女のことを冒涜し続けていたのだ。
 私は、箱の上に顔を突っ伏して、泣いた。

 許しておくれ、許しておくれ!

 その声も、きっと彼女には届いていない。
 だって、箱の中にいる彼女は、もう……。