仮面の向こう側(36.不信)




 「好きだよ、宵風。世界で一番、君を愛している」
 一日に何度も、村雨は私にそう言う。
 椅子に座っている、私の婚約者。彼は今、仮面をつけている。水の都で買ったというその仮面は、白い。左目の下や右頬の部分には青色で幾何学的な模様が描かれている。
 村雨は、8年前からずっとその仮面をつけ続けている。私は、もう彼が元々どういう顔だったのか覚えていない。整った顔立ちだったような気もするし、ごく平凡な顔であったような気もする。醜い顔ではなかったと思う。
8年前の出来事まで、私はほとんど彼と会ったことがなかった。ただのご近所さんであったからだ。だから、彼の顔など元々印象に残っていなかった。

 「私もよ、村雨。世界で一番貴方を愛している。ああ、私少しお手洗いに行ってくるわね」
 そう言うなり、私は逃げるように彼のいる部屋から出て行った。
 胸が張り裂けそうなくらい痛い。心臓はばくばくしている。頭は割れそうで、足はがくがく震えている。吐いてしまいそうだ。
 私は、怖い。村雨が怖くて仕方ない。

 村雨が何故仮面をつけるようになったのか。
 それは、8年前の出来事が原因である。

 8年前、私の家が火事にあった。大きな屋敷を、紅蓮の炎が包み込んだ。
 昼寝をしていた私が、妙に暑苦しいと思って目を冷めた頃には、部屋の中は火の海と化していた。
 私はパニックに陥り、立つこともできずに泣き叫んでいた。助けて、助けて!ただ助けを求めることしか出来なかった。足はがくがく震え、力が入らない。
 そんな時、私の部屋のドアを開けて村雨がやってきた。村雨は、私を助けるため、大人たちの制止を振り切って屋敷に入ったのだという。
 村雨は泣き叫ぶ私を立たせた。そして私と村雨は必死になって走った。
 どうやってあの火の海の中を潜り抜けていったのか。もう、覚えていない。兎に角その時は無我夢中だったのだ。死にたくなかった。
 私と村雨は、無事屋敷から脱出した。すぐ大人たちが駆けつけてきた。無謀にも屋敷の中へ飛び込んでいった村雨を叱るものはいなかった。それどころではなかったからだ。
 村雨は、酷い火傷を負っており、私の無事を確認するのと同時に気を失った。
 私は、奇跡的に軽い火傷と擦り傷程度ですんだ。だけど、村雨は違う。
 村雨は火の粉から私をかばい続けた。そのためか、私よりも酷い火傷を負ってしまった。
 村雨は、一命をとりとめた。けれど、その顔は焼けただれ、全身に生々しい火傷の跡を残すこととなった。
 それ以降、村雨は仮面をつけるようになってしまった。

 そう、村雨から顔を奪ってしまったのは、他でもない……私であったのだ。私が、ちゃんと逃げていれば、村雨は屋敷に飛び込むこともなかった。あのような酷い火傷を負うこともなかった。

 村雨は、私を責めることはなかった。
 私のせいだ、ごめんなさいと泣いて謝り続ける私に、彼は「君のせいじゃない。僕が悪いんだ。無謀にも屋敷の中へ飛び込んだ結果なのだから。でも、よかった。宵風を助けることができて、本当によかった」と笑って言った。
 私は、村雨の傍に一生いることを決めた。そして私は村雨と婚約した。

 最初は、楽しかった。色々な知識を持つ村雨の語る話はとても面白かったし、彼が作るお菓子はどれも絶品だった。彼に抱きしめられたり、頭を撫でられたりすると幸福のあまり死んでしまいそうだった。
 しかし、次第に私の中に「恐怖」と「不信」という感情が芽生えるようになっていった。
 村雨は、本当に私を責めていないのだろうか。
 最初は、小さな種位の大きさの疑問であった。いや、でも彼は私のことを愛していると言ってくれている。
 けれど、あの無機質な仮面を見ていると、彼の言葉が本当なのか分からなくなっていった。私のことを見ている仮面。その仮面の下に浮かんでいる表情は、本当に笑顔なのだろうか。
 その思いは日に日に大きくなっていった。そんなはずはない、何を馬鹿なことを考えているのだろう。そう思う。けれど、あの仮面を見た瞬間その思いは綺麗さっぱり吹っ飛んでいくのだ。

 本当は、村雨は私のことを恨んでいるのではないだろうか。馬鹿な小娘のために、彼はこれから先の人生を駄目にしてしまった。今までどおりの生活は、もうできないのだ。
 愛している。その言葉の裏にあるのは「憎しみ」「怒り」ではないのだろうか。
 彼は毎日私に何十回も「お前を世界で一番憎んでいる」と言っているのではないだろうか。

 気づけば、私は村雨と会うのを酷く恐れるようになっていた。
 彼の話が耳に入っていかない。そのまま綺麗に抜けていく。彼の作るお菓子の味も、分からなくなっていった。
 お菓子を食べる私のことを、頬杖をつきながら見ている村雨。
 ああ、今私は彼に見られている。

 「宵風は、可愛い。食べている姿も、とても可愛い」
 その言葉を聞くと、足ががくがくと震える。本当に?本当に可愛いと思っているのだろうか。
 頭を思いっきり押さえつけられている感覚。呼吸の仕方すら忘れてしまう。
 
 ああ、村雨が私を抱きしめている。怖い、逃げたい。震えて俯いている私に、村雨が「どうしたの? 恥ずかしいの」と優しく声をかける。違う、違うの。怖いのよ、私は。

 私は、村雨の言葉が信じられなくなっていた。仮面の向こうにある目は本当に笑っているのだろうか。優しい笑顔がその向こうにあるのだろうか。
 憎んでいない、怒っていないという確証はどこにもない。私がもっとしっかりしていれば、村雨はあんな目にあっていなかったのだから。
 憎んでいるのなら、憎んでいると言ってほしい。その方がずっと楽だった。

 「愛している、愛しているよ。宵風、君を愛している……」
 初めは嬉しかったその言葉。けれど、もうそれは私にとって呪いの言葉でしかない。
 数ヵ月後、私と彼は結婚する。
 彼は、私を死ぬまで離さないだろう。お前のせいだ、お前のせいだ……その言葉を仮面の向こうに隠し続けたまま、私に毎日「愛している」と囁くのだろう。
 いや、違う。彼は私のことを本当に愛してくれているのだ。きっとそうだ。愛してくれている。
 ああ、でも本当にそうなのだろうか。あれはやっぱり嘘で、私のことなど愛してなんかいないのだろうか。

 ただ一つだけ、分かること。
 私はもう2度と村雨のことを信じることはないだろう。例え、村雨が本当に私のことを愛しているのだとしても。その事実を知ったとしても、もう私の心が落ち着くことはない。
 私はこれからも村雨のことを恐れ続ける。そうしながら、毎日を過ごす。
 これが、きっと愚かな私に対する罰なのだ。

 彼の愛を信じられずに、毎日怯えなければ暮らさなければいけない。
 あるいは、彼の憎まれながら暮らし続けなければいけないのだ。

 私は、再び扉を開ける。
 そこには、村雨がいる。仮面をつけた村雨。仮面の向こうにあるものは相変わらず見えない。
 真実は、永遠に仮面によって隠され続けるだろう。

 「おかえり、宵風。さあ、お茶にしよう。今日は、君の大好きなフォンダンショコラだよ」

 「ええ、村雨、ありがとう。愛しているわ」

 「ああ、僕も愛している」