黒猫の嫉妬(34.妬む)
闇の住人の時間。満月は空高くに昇り、その周りを雲がゆっくりと徘徊している。
『酔いどれみみずく亭』は、満月の真下、もう誰も住んでいない荒れ果てた建物が並ぶ通りにあった。青白いコンクリートの建物の上部に、楕円型で木製の看板が掲げられている。そこにおどろおどろしい字で『酔いどれみみずく亭』と書かれている。
入り口は、障子戸であった。建物は和風でもなんでもないのに、そこだけが妙に日本っぽい。大分古いものらしく、木はぼろぼろだったが、紙は頻繁に張り替えているためか、綺麗であった。
そんな『酔いどれみみずく亭』に、一人の男が入ってきた。
黒い帽子に、黒いサングラス。黒いコートに黒いズボン、ブーツ。右手で持っているのは、大きな黒いスーツケースであった。肩までかかっている髪はややもじゃっとしている。そんな彼の後ろを、一羽の烏がちょこちょことついてきている。とにかく、何もかもが黒であった。
『酔いどれみみずく亭』のマスターは「いらっしゃい」と小さな声で言った。細長い顔に、白髪、丸い眼鏡をかけた、50代半ばほどの男である。名前を梟、という。
黒ずくめの男は、カウンターの一番端っこに腰をかける。後ろをついていた烏は、カウンターの上にひょいっと乗って毛づくろいを始めた。
「こんばんわ。久しぶりだな、黒猫。今度はどの辺りへ行ってきたんだ」
「東にある小さな国だ。花占いの結果を元に政治を執り行うという、変わった国だった」
黒猫、と呼ばれた男は頬杖をつきながら、囁くような声で言った。
「ほう。それはまた奇怪な。水占いでも、焼いた鹿の骨に入ったひびを元に占うものでも、星占いでもなく、花占いかね」
「ああ、花占いだ。だから、国中花でいっぱいだった。花の匂いがきつすぎて、吐き気がした。……まだ服にもこびりついているようだ」
黒猫は、コートの袖の匂いをかいで、顔をしかめた。
「それは災難だったな。まあ、とりあえずサングラスぐらいとったらどうだ。コートも脱げ。全く、よくそんなものをこの季節に着ていられるものだな」
黒猫は、しぶしぶコートを脱ぎ、サングラスを外した。サングラスの下にあるのは、冷たい光を宿した、切れ長の黒い瞳。黒のコートの下は黒のタートルネックのセーターだ。余程黒が好きとみえる。黒猫は梟にコートを渡す。梟は、それをカウンター奥にあるハンガーに丁寧にかけた。
「まあ、とりあえずゆっくりしていけ。どうせお前のことだから、またすぐにどこかへふらっと出かけるのだろうが」
「仕事だからな」
「シゴト、シゴト、クロネコ、シゴトノ、オニー」
さっきまで黙っていた烏が、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
「黙れ、久方(ひさかた)。丸焼きにされたいか」
その一言で、久方はしんと黙りおとなしくなった。が、どうせまたすぐに騒ぎ出すに決まっていた。
梟は、黒猫に真っ赤な飲み物を差し出した。『血塗れの鳩』彼のお気に入りの飲み物だ。その材料が一体何であるのか、梟は言おうとはしない。しかし、黒猫にとっては材料が何であるかなど、どうでもいいことだった。飲んで美味ければ、それでよかった。
「それで、仕事の方はどうだった。良い物は手に入ったかい」
「いいものかどうかは知らない。が、一応新しい商品が出来た」
『血塗れの鳩』を一口飲むと、黒猫は足元に置いたスーツケースをおもむろに開けた。その中に入っているのは、数え切れないほどある、ビー玉のようなものであった。それらには一つずつラベルがついており、何かが書かれていた。
そのビー玉のような物体。それが、黒猫の売るものであった。黒猫は、その中から赤黒い玉をつまみ、梟に投げてよこした。梟は、それをしっかりとキャッチし、眼鏡をいじりながらそれをじっと見つめた。
「これかね。……随分とまあ、どす黒い色だね。これは『負の感情』をこめたものか」
「ああ。『嫉妬』という名の感情が、そこに入っている」
無表情だった黒猫の顔が、その玉の話になった途端微かに歪んだのを、梟は見逃さなかった。
「なんだ、これに何か苦い思い出でもあるのかね」
皿にプチトマトサイズの朱色の実を盛りながら、梟が問う。黒猫がそっぽを向いた。それきり、黙ってしまった。
沈黙の時間を作ったのが彼なら、破ったのも彼であった。しばらくした後、黒猫が口を開いた。
「それは、俺の感情だ。その玉に込めたのは、俺の『嫉妬』という感情だ」
梟が驚いたような表情を浮かべた。
「お前が嫉妬? ほほう、それは興味深い。美しい女性から告白されても眉一つ動かさず、酷い死体を見ても微動だにせず、自分の母を無くしても涙一つ流さなかったお前が、嫉妬という感情を抱いたとは」
そういいながら、梟は朱色の実が盛られた皿を出した。「一掴みの鬼灯」これもまた、黒猫の好物であった。「血濡れの鳩」同様、何の実であるかは不明である。果物なのか、野菜なのか、木の実なのか。味は甘みの少ないみかんといったところだろうか。
黒猫が、それをいくつか口に放りこんだ。ずっと黙っていた久方も、それをついばみ始める。
「初めてだった。……人をあんなに強く妬んだのは。あれほどまでに強く、誰かを羨ましいと、憎らしいと思ったことは、今までなかった」
黒猫の仕事とは、様々な国を渡り、そこで出会った人間の持つ「喜び」「悲しみ」「憎しみ」「愛しい」などの様々な感情を、特殊な玉に吸収し、それらを吸収した玉を他人に売るというものだった。
「喜び」の感情の入った玉を飲めば、喜びに満ち溢れ「悲しみ」の感情の入った玉を飲めば、どうしようもなく胸が苦しくなり、泣きたくなる。だが、同じ「喜び」という感情でも少しずつ違いはある。同じ卵焼きでも、作る人間によって味が変わるのと同じだ。胸がかっとなるほど熱くなる喜びもあれば、ほんわか暖かくなる喜び、甘い喜び、微妙に負の感情が入り混じった喜び。
黒猫は、それらを集め続ける。そして、売り続ける。そんなものが本当に売れるのか、梟には分からなかった。が、生活は出来ているようだから、そこそこ売れるのだろう。
しかし、それを売る黒猫本人は、そういった「感情」という名のものとは無縁な存在であった。梟は、彼が声をたてて笑ったり、泣いたり、激しく怒ったりしたところを見たことがなかった。いつも無表情で、冷たくて、落ち着き払っている。感情という言葉など、遠い昔にどこかへ捨て去ったようであった。
そんな黒猫が、激しい嫉妬の感情を抱いたというのだから、驚きだ。
「何があったんだ」
「……花占いの国で、一人の女と出会った。晦日、という名の女だった。……綺麗な、女だった」
梟は、ほうと驚きの声をあげた。黒猫が、女のことを「綺麗」と言うのを初めて聞いたからだ。周りの人が綺麗な女性を見て「あの女、綺麗だよな」と同意を求めても「知らん」と一言で答えるだけで、それ以上のことは一切言わない男であったのだ、黒猫という人間は。
「夜歩いていたとき、路地裏で3人組の男に襲われて、気を失っていたところを見つけてくれた。晦日は宿屋の娘だったらしく、俺をその宿まで運んでくれた。……運んだ人間は晦日ではなかったが」
「お前なら、男3人位簡単にのしてしまうだろうに」
「熱があった。……少し、ふらついていたんだ」
「クロネコ、ネツダシタ。メズラシイ、メズラシイ、クロネコアノトキネツダシタ」
またぴょんぴょん跳ねはじめた久方を、黒猫が小突いた。
「晦日は、俺につきっきりで、看病してくれた。もう治ったからいいと言っても聞かなかった」
黒猫は、晦日と過ごした日々を思い返していた。
---駄目よ。まだ熱があるもの。怪我だって、完治しているとは言いがたいわ---
窓から差し込む光に照らされた晦日は、眩しく輝いていた。その笑顔は、まるで太陽のようだと黒猫は思った。自分でそんなことを思った後、何て恥ずかしいことを考えてしまったのだろう、と顔を微かに赤くさせた。きっと、そのことに晦日は気づいていなかったに違いなかった。
黒猫は、熱が下がり、怪我が完全に治った後も、晦日の宿に滞在していた。晦日ともっといたいと思った。自分でも不思議に思うくらい、強くそう思った。
晦日は、黒猫が世界中を巡っていることを知ると、彼に思い出話をねだった。黒猫は、ぽつぽつと自分が出会った人間や、訪ねた国について語った。話下手な黒猫の話を、晦日は楽しそうに笑いながら聞いていた。
---黒猫、もっと話して。もっと、もっと。私、黒猫のする話、好きよ。私、この国から出たことが無いの。でも、黒猫が色々な国のことを話してくれると、自分がさもその国へ旅行へ行った気持ちになれるの。ねえ、私は黒猫が羨ましいわ。仕事とはいえ、色々なところへ行けるんですもの---
---それなら……---
---何?どうしたの?---
---いや、何でもない---
黒猫は、自分でも何を言おうとしたのか分からなくなってしまった。が、途方も無く恥ずかしく、それでいて「いいよ」といってもらえたら嬉しいことであることは確かであった。
「幸せだった。……きっとあれが、幸せというものだったんだ」
晦日の笑顔。自分の隣に座って、熱心に話を聴いている晦日の姿。彼女といると、自分が今まで知らなかった思いが次々と溢れてきた。
仕事のことも忘れ、自分が「無」を生きてきたことも忘れ。黒猫は、晦日と過ごす毎日を楽しんだ。
ずっと、彼女の傍にいたい。
それが「恋」であることに気づいたとき、黒猫は酷く動揺した。黒猫は、どうにも「恋」とか「愛」とかいうものが苦手であった。出会った人々からそれらの思いを貰う時は(玉に吸収したからといって、その思いが吸収した相手から消えるわけではない。ただし完全に吸収すれば、その思いはなくなる)いつも吐きそうになった。
そんな自分が、恋をした。その事実をはじめは信じることが出来なかった。そんなことはありえない、と思った。しかしそれは勘違いでもなんでもない。
黒猫は、晦日のことを愛してしまった。深く、深く。
黒猫は、それからというもの、毎日頭を抱えるようになってしまった。一体どうすればいいというのだろう。どうすれば、自分の思いを彼女に伝えられるのだろう。いや、伝えたとしてその思いは彼女に届くのだろうか。
そんな苦悩にも気づかない晦日は、相変わらずにこにこと幸せそうに笑っていた。その笑顔を見ると、頭がおかしくなりそうになる。寝るときも、風呂に入るときも彼女のことを考える。
自分で自分のことを気持ちが悪いと思った。しかし、そう思っても、彼女のことを考えることをやめることはできなかった。
「……悩み、苦しみながらも、俺は幸せな毎日を送っていた。……だが、その日々はあっけなく終わりを告げた」
---聞いて、黒猫。私今度、結婚するのよ---
満面の笑みを浮かべて、晦日がそう言った。
「恋人がいたんだな、晦日という娘には」
黒猫がその言葉にゆっくりうなずいた。手には「一掴みの鬼灯」があるが、口に入れようとしない。
「文章(ふみあき)という名の男だった。もう何年も付き合っている男だったらしい」
「よくあること、と言ってはお前さんには酷かな」
「かまわないさ。……結局、晦日は俺のことなど、ただの話相手ぐらいにしか思っていなかったのさ。自分の知らない世界を知る人間。それだけの話だ」
「それで、お前は嫉妬したのか。文章、という男に」
「いい奴だった。……よく出来た人間だった。あの男なら、晦日のことを絶対に幸せにしてくれる、そう思う。……そう思うからこそ、悔しかった。俺には出来ないことを、彼はすることができる。彼女と共に過ごし、彼女を幸せにする……それが、あいつにはできる。……馬鹿だった、俺は本当に馬鹿だったんだ。彼女の笑顔は自分のもので、彼女の隣にいるのは自分なのだ、とほんの一瞬の間でも思っていた俺は」
羨ましかった。ああ、これから文章は彼女と共に幸せな毎日を過ごすのだろう。美味しい料理を食べ、語り合い、手を繋いでありとあらゆる場所に行き、きっとやがては子を作り、その子供を四苦八苦しながら育て、嫁(もしくは婿)にだし、老いてもなお幸せに笑いあい、逝くのだ。
2人がそうしているところを思い浮かべると、息が詰まりそうになった。
「羨ましい。憎らしい……どうして自分ではないのだ。何故、隣にいるのは俺ではなく彼なのか……。彼が俺であればいいのに。ああ、何故だ……。あれほどまでに激しい感情だったのだな、嫉妬というものは」
「ああ。そうだなあ。……嫉妬という感情は、時に人を狂わせる。自分が狂っていることにも気づかない位に。そして、その激しい思いを人や物にぶつけることもある。嫉妬という感情が生んだ悲劇というものは、数多い。それは、お前もよく知っているだろう。様々な感情を持つ人間と出会ったお前には」
「俺は、結婚式に招待されていた。だが、行かなかった。その前夜、宿屋を抜け出してこっちに戻ってきた。……もし、行っていたら、何をしたか分からない」
激しい感情が、普段は冷静な自分を変貌させ、凶悪で残忍な鬼へと変え、悲劇を生み出したかもしれなかった。
式に黒猫の姿がないのを見て、晦日は落ち込むかもしれない。だが、それでいいのだ。悲劇が起きてからでは遅い。
彼女は、黒猫の姿を見ない代わりに、大きな幸せを手に入れたのだ。
「人が人に嫉妬する。その感情こそ、お前さんが人間である証なんだよ。黒猫。お前は人間だ。……人間である以上、この先もそういった感情を抱くことがあるかもしれない。けれど、その気持ちを蔑ろにしてはいけない。大切にするがいい、それこそがお前さんが人間として生まれ、人間として生きている何よりの証であるのだからね」
「……ああ」
そういって黒猫はゆっくりと立ち上がる。梟は、コートを黒猫に手渡す。黒猫はそれを着ると、飲食代を払う。
そして、またスーツケースを開くと、また一つ玉を取り出し、それを梟に投げる。
「さっきの玉と、この玉。どちらも、やる。例えこれらが俺が人間である証だとしても……それを持っている気分にはなれない」
「分かったよ。これは私がもっておこう」
それを聞くと、黒猫は軽くお辞儀し、店からでていった。また、あらゆる思いを集めるために、どこかへ旅立つのだろう。
梟は、さっき投げてよこされた玉を見て、微笑んだ。
「おやおや。これはなかなか」
梟の手のひらにのる、もう一つの玉。
それは、桜の花びらのような色であった……。