祈るべきか、祈らざるべきか(39.祈る)




 「何故、何故こんなことをしなければいけないのですか」
 黒い髪で幾つもの髷を結い、白い布で身を包んだ女が、頭を床につけて平伏している老婆に問いかけた。
 老婆は、顔もあげずに答えた。

 「あの方が、望まれているからで御座います」

 「分かっています」
 けれど、けれど、女は今にも泣きそうな表情を浮かべて話を続けた。

 「こんなこと、矢張り嫌です。こんな、こんなむごいことを祈り続けなければいけないなんて」

 「誉(ほまれ)様のおっしゃることはよく分かります。されど、あの方が望んだ以上、貴方様は祈らなければならないのです。あの方の願いを無視して、祈らない方が余程むごい仕打ちで御座います」
 老婆の声は微かに震えていた。目の前にいる老婆とて、こんなことを言いたくはないのだろう。誉は老婆の目の前に立ち、膝立ちをすると、震える老婆の背中を優しく撫でた。

 「ごめんなさい。お前とて、辛いわよね。いえ、むしろお前の方が辛いかもしれない。けれど、矢張り私は」
 誉の背後には、立派な祭壇がある。両脇には彼岸花を生けた花瓶が置いてあり、中央には綺麗に磨かれた丸い鏡がある。その鏡に映っているのは、誉の姿でも、老婆の姿でもない。
 そこに映っているのは、白髪の老人であった。その老人は眠っているようだった。顔は真っ青で、死人のようであった。
 誉は振り返り、その顔を見、またすぐに老婆の方へ向き直った。

 「私は、苦しくて仕方ありません。日に日に弱っていくあの方の顔を見ると、涙が止まらなくなる。いっそ吐いた方が楽になるとすら思います。……あの方を弱らせているのは、私なのですから」
 誉は、両手で顔を覆い、静かに泣いた。身体を震わせるたび、自分の力を高める翡翠の玉がじゃらじゃらと音を立てた。
 老婆が、それにつられて泣き出した。声をあげて泣いていた。

 「私とて、本当は誉様にこんなことはしてほしくないのです。日照りで乾いた地を潤す雨が降るよう祈ってもらったり、漁へでる男達の無事を祈ってもらったり。そういった祈りを捧げてほしいのです。ですが、ですが、あの方が望んだのです。誉様に……自分の死を祈ってもらうことを」
 最後の言葉を唇から紡ぎだすことは、老婆にとって何よりも辛いことだった。声は掠れ、うわずっていた。わっと誉が声をあげて泣いた。
 そう、誉は鏡に映っている老人の死を祈っているのだ。その祈りは天へ届き、老人は日に日に弱っていっている。このまま祈り続ければ、老人はそう遠くない未来に死ぬだろう。
 誉に死を祈ってほしいと頼んだのは、他でもないその老人本人であった。
 老人は、誉の祖父であった。強大な霊力を持っていた祖父は、誉の師匠でもあった。誉が力を正しく使えるように導き、彼女を国一番の巫女姫に仕立て上げた。
 そんな祖父は数ヶ月前、病に倒れ、寝たきりの状態になってしまった。
 大好きだった祖父を救おうと、誉は祖父の健康を祈った。しかし、祖父の身体は一向によくならなかった。
 彼自身が、自分が健康になることを望んでいなかったからだ。どれだけ誉が祈っても、本人にその意思がなければ意味が無かった。
 ある日、誉は祖父に呼び出された
 彼女にとって大きな存在だった祖父は、すっかり小さくなっていた。これほどまでに小さかったかと思うくらいだった。
 祖父は小さな声で話し始めた。

 ---誉、お前は私の体が良くなるように、毎日祈っているそうだね---

 ---はい。おじい様。ねえ、早く良くなって下さい。私、おじい様とまた一緒に蛍祭りへ参りたいですわ---

 ---誉。……お前に、頼みがある---

 ---何で御座いますか---

 ---お前に、私の死を……安らかな死を、祈ってほしい---
 誉は、一瞬祖父が何を言っているのか理解できなかった。しかし、真っ白だった頭がはっきりすると、首を横に思いっきり振った。

 ---何を馬鹿なことをおっしゃっているのですか!---

 ---私は、本気なんだよ。誉、私はもう十分生きた。お前は立派な巫女姫になった。もう、思い残すことは無い。私は、安らかに逝きたい。だから、誉。祈っておくれ。他の誰にも祈ってほしくは無い。誉、お前に祈ってほしい---
 涙がとまらなかった。祖父の手を握る力が強くなる。できるはずがなかった。自分が愛する人間の死を祈ることなど、できるはずがなかった。
 誉は、首を横に振り続けた。しかし、祖父は諦めなかった。それでも誉は嫌だと言い続けた。そこに、老婆が現れた。

 ---誉様。祈って差し上げてくださいませ。この方を、どうか、どうか安らかに眠らせてあげてくださいませ。この方が、愛する貴方の祈りで、魂を天へと送って差し上げてください---
 老婆は、祖父の妻……つまり、誉の祖母だった。祖母は、孫である誉に「様」をつけて話す。余所からやってきた、何の力も持たない祖母にとって、大きな力を持ち、祖父に大切にされた誉は、尊い存在だったからだ。
 老婆は、夫の幸せを望んだ。夫の幸せが、安らかな死だから。だから、老婆も誉に頼んだ。
 誉は、嫌だ嫌だと駄々をこねた。しかし、この家で祖父の命令に逆らえるものは誰もいない。誉とて同じだ。祖父の願いはすなわち命令である。拒絶することは出来ない。
 誉は祭壇にある花瓶に、死の花である彼岸花を生け、祖父の髪の毛が入った箱を祭壇に捧げた。目の前にある鏡には、眠る祖父の顔が映し出されている。

 誉は、祖父の死を祈り始めた。
 祈りの言葉を口にするたび、吐きそうになった。涙で前が見えなくなる。自分が祈れば祈るほど、祖父の顔色は悪くなっていく。鏡に映る祖父から生気が消えていくのを感じる。それを目の前で見せつけられながら、祈り続ける。それは、苦痛以外の何者でもなかった。

 「祈りではない、これは、呪いです。孫に呪いをかけさせることが、おじい様にとっては、幸せだというのですか。私は、人を……愛する方を呪うために今まで生きてきたわけではないっ」
 誉は、翡翠の首飾りを思いっきり引きちぎった。瑞々しい色をした翡翠が音をたてて転がっていく。
 老婆は、頭を振った。

 「違います。これは祈りなのです。呪いなどでは、ないのです。あの方がそれを望んでいるのです。相手が望んでいることを願うことは、呪いではありませぬ。呪いとは、相手が望まぬことを願うこと。あの方は死ぬことを望んでいるのです。誉様の祈りで死ぬことを。ですから、これは呪いではありませぬ。誉様があの方の生を望むこと、祈ることをやめること、誉様以外の者があの方の死を祈った時、それは呪いとなるので御座います」
 老婆は、叫ぶようにそう言った。そう思い込もうとしているようにさえ思った。これは呪いではなく、祈りなのだ。だから、罪悪感を感じることは無い。夫の幸せは自分の幸せ。夫が死を望むなら、自分も夫の死を望む。そして、誉に全てをたくす。
 夫の死を、孫に祈らせることは愚かなことではないのだ。そう思いたいのだ。

 「ああ、私はどうすればいいの! おじい様の死を祈るべきなの、祈らないべきなの。ああ、こんな力、なければよかったのに!」
 誉は、泣き続けた。老婆は、どうかそんなことをおっしゃらないで、お願いですから、と懇願し続ける。

 どちらが正しくて、どちらが間違っているのか。

 それは恐らく、永遠に出ない答え……永遠に。