あの糸は解けない(32.激怒)




 「お前、いい加減にしろよな!」
 鉄の扉を開けて入ってきた男は、顔を真っ赤にしながら、女に怒鳴った。
 男は、20代半ばをいったところだろうか。短く切った黒髪、大きな瞳。黒いローブに、黒いブーツ。全身、黒尽くめの男だった。
 対する女は、男と同じ位の年に見える。金色の髪が緩やかなウェーブを描いていた。青く澄んだ瞳。白いワンピース。靴は履いていない。女は、真っ白で冷たい部屋の床に一人座っていた。
 女の両手両足、首には赤い紐が巻かれていた。真っ白な空間、真っ白な肌にその赤はよく映えていた。両手と首に巻きついた紐は、天井からぶら下がっていて、足に巻きついている紐は、床にだらりと垂れている。
 女は、俯いて男から視線をそらした。その態度にますます腹を立てたのか、男はずかずかと足音を響かせながら女に近づく。そして女の顎に手をやり、くいっと女の顔をあげさせた。女の青い瞳と、男の黒い瞳が重なった。

 「未だ、未だお前はあの糸を解いていないのか! 今日、あいつの家にいった。あいつは、まだあそこにいた! にこりと笑って、やあ月夜(つくよ)見(み)今日もいい天気だねと言ってきた!」
 
 「私は、決して糸を解かない」
 その言葉に月夜見はかっとなり、女の頬をぱん、と叩いた。女は泣かなかった。ただ無言で床を見続けていた。
 月夜見の気持ちは、それだけでは落ち着かなかった。無防備の女の胸倉をつかみ、女を睨みつけた。

 「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな! 籠に閉じ込められ、両手両足の自由を奪われ、首を締めつけられてなお、お前はあの糸を解かぬというのか!」

 「解かない。解くものですか。私は、あの人を愛している」

 「愛している? ふざけるな、本当に愛しているのなら、糸を解くはずだ! いい加減、あいつを解放しろ、それがあいつにとって一番幸せなことなんだ!」
 月夜見の叫びは、願いにも似たものだった。しかし、月夜見の言葉は、女には届かない。

 「いいえ。駄目よ。だって、糸を解いたら、あの人は今度こそいってしまう。あの人が行く先に、幸せなんてないわ。あそこには、何も無いのよ。それよりも、あの陽だまりの世界の中で過ごす方が、ずっと幸せのはずよ。月夜見、貴方はあの人の一番の友達でしょう? あの人がいなくなってもいいの?」

 「ああ、構わないさ。俺はとっくに受け止めたんだ、あいつがいなくなるという事実を! いい加減、お前も受け入れてくれ。もうここは、あいつのいるべき世界ではなくなっているんだ、あいつはいくべき場所にいかなくてはいけないんだ!」
 月夜見は、親友である男の顔を思い浮かべた。根暗で、人との馴れ合いを避けてばかりの、暗闇がお似合いの自分とは正反対の人間。いつも笑っていて、誰とでも仲良くなれる、優しくて明るくて、太陽のような存在だった男。
 月夜見は、男の笑顔が好きだった。月夜見と、女と、3人で笑いながら過ごす世界が好きだった。
 その世界が終わりを告げた時、月夜見は絶望した。自暴自棄になって、周りのものに八つ当たりして、部屋に閉じこもって、一人で泣いた。
 しかし、月夜見は少しずつ彼のいない世界を受け入れた。そして、前へ進んでいくことを決めた。
 その思いを、目の前にいる女は踏みにじった。女は、男の身体に紐をくくりつけ、男を縛りつけた。そして、男が本来いくべき世界へいかせないようにしたのだ。その糸を解くことができるのは、女だけだった。月夜見には、どうしようもないことだった。

 「俺は、お前にこんなことをしたくないんだ。でも、こうでもしなければお前は考えを変えてくれないだろう。なあ、頼む。糸を解いてやってくれ。そうしなければ、俺はいつまでもお前を縛り続けなければいけない。時にお前の首を紐で絞め、紐を引っ張って手や足を無理矢理引っ張らなければいけない」
 やがて、月夜見の目から涙がこぼれ落ちてきた。そう、本当はこんなことはしたくなかった。女の苦しむ声など、聞きたくない。死んだような顔もみたくない。
 しかし、どれだけ叫んでも、祈っても、女には届かない。

 「私は苦しんでも構わない。痛めつけられても構わない。でも、こんなことしても無駄よ、月夜見。私は糸を解かない。ねえ、彼は今頃何をしているかしら。花に水をあげているのかしら、それともお気に入りの音楽を聞いているのかしら。それとも、レモンパイを焼いて食べているのかしら」
 月夜見の思いなど、知らないとでもいうかのような返事だった。女は夢を見るような表情を浮かべた。その表情を見ると、月夜見は頭にかっと血がのぼった。
 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!月夜見は、自分の気持ちを全く理解しようとしない女を蹴りつけた。女は、抵抗しない。悲鳴もあげない。月夜見が何故ここまで怒っているのか、全く理解できないようだった。
 月夜見は、怒るしかなかった。怒ることしかできない自分が情けなかった。
 自分に力があれば。男を縛る糸を解くなり、切るなりする力を持っていれば。そうすればすぐにでも男の家へ行き、男を解放するのに。その結果、女に拒絶されるとしても、構わなかった。どの道、女と昔のように一緒に笑うことはできないに違いなかった。
 しかし、月夜見にそんな力は無い。あの糸を解くことができるのは、目の前にいる女だけなのだ。人を糸で縛りつける力も、それを解く力も、世界でただ一人、目の前の女しか持っていない。
 その悔しさを、むなしさを怒りに変えて、月夜見は女を蹴り、殴り、女の首に巻きつけた紐を引っ張って締めつけた。

 「お前のそれは、愛じゃない。縛りつけることの何が愛だというんだ。あいつをここに縛りつけることのどこが、愛なんだ」
 女は、無言のままだった。もしや死んだのでは、と思って慌てて引っ張っていた紐を手放す。女は死んでいなかった。軽く咳き込んだ後、ぼろぼろになった顔を月夜見へ向けた。月夜見を睨むその青い瞳は、ぎらぎらと輝いていた。

 「愛よ。愛なの。私はあの人を愛している。貴方には分からないでしょうね、貴方は愛したことなんてないのでしょう?」
 月夜見は、顔を赤くして女を睨んだ。頭の中はすっかり沸騰して、もう何を考えることもできなくなっていた。
 愛したことなんてないのでしょう。その言葉は、月夜見に熱湯をかけた。
 愛しているから、願っているのだ。大切な親友である男の本当の幸せと、女が再び陽だまりの世界で心の底から笑うことを。
 そんなことも、分からないなんて。月夜見は、吐きそうになった。自分の中を巡る怒りのエネルギーに気が狂いそうになった。

 「今日は、飯をやらない。明日の朝もやらない。……早く、早く糸を解いてやってくれ」
 月夜見は、くるりと女に背を向け、部屋をでた。そして、ドアを閉めると、頑丈に鍵をかけた。女の「絶対に解かないから」という声が聞こえた気がした。
 いつまでこんなことを繰り返すのだろう。月夜見は、そこらにあるものを蹴飛ばしながら歩く。
 永遠に続くかもしれない、愚かで苦しいだけの毎日。
 月夜見は、男と女が誕生日プレゼントにとくれたペンダントをポケットから取り出した。
 それはロケットペンダントで。ふたをあけると、三人で撮った写真がついている。こんな苦しみの日々が訪れることも知らずに、幸せそうに笑っている自分と男と女。
 その笑顔さえ、腹立たしくなってきて、月夜見は壁を蹴飛ばした。

 女は、いつになったら糸を解くのだろう。そして、自分はいつになったら女を解放するのだろう。その日は来るのだろうか。
 明日も、きっと同じような日が続く。
 月夜見は、とぼとぼと自分の部屋へと戻っていった。