紫陽花姫




昔々桜村に、紫陽花姫という娘が居た。村のあちこちで咲く、空の色をした紫陽花の色の髪に桃色や藤色の紫陽花の髪飾り、青と紫を重ねた着物姿の、愛らしい娘であった。

 紫陽花姫は、人ではなかった。紫陽花姫は、桜山の、村人さえ通らないような場所に咲き誇っている紫陽花の化身であった。紫陽花姫は、紫陽花の咲く季節に村人の前に姿を現し、梅雨があけて、紫陽花の花が姿を消した頃にいなくなる。紫陽花姫は村に来るたび、村人と他愛もないお喋りをし、歌を教え、踊りを教え、反対に村人達から様々なことを学んでいた。そして山に戻る前に豊穣を祈る舞を舞った。

 紫陽花が咲き始め、山を華やかに飾りだした頃、再び紫陽花姫は村を訪れた。村人達は、紫陽花姫を歓迎し、ささやかな宴を開いてくれた。紫陽花姫はいつも自分の為にしてくれるこの宴が楽しみで仕方なかった。

 酒を飲み、美味しい料理を食べ、踊り歌い、皆で騒ぐ。紫陽花姫は楽しい時間を過ごしていた。

 宴も大分盛り上がってきた時のことだった。紫陽花姫の前に、1人の青年が現れた。紫陽花姫は、首をかしげた。その青年の顔など今まで見た事がなかったからだ。青年は微笑み、紫陽花姫の持つ杯に酒をついでやった。

 紫陽花姫は、そんな青年の手が自分の手に触れた瞬間、体が熱くなるのを感じた。それは酒のせいではなかった。

 紫陽花姫は、青年に恋してしまった。青年もまた、紫陽花姫に恋をした。

 紫陽花姫は、青年と逢瀬を繰り返した。青年は、つい最近村へとやってきたらしいのだが、随分と村になじんでいた。元々外部からやってきた者ともすぐ打ち解けてしまう村なのだが、ここまで短期間で打ち解けてしまうことはなかなかなかった。

 紫陽花姫は、他の村人達との時間も大切にしたが、やはりそれ以上に青年と二人で過ごす時間の方を大切にした。やがて、他の村人と過ごす時間よりも青年と過ごす時間の方が長くなっていった。

 二人で山を歩きながら、色々話した。草花のことや、空を飛ぶ鳥達のこと、思い出話。とにかく数え切れないくらいの話を二人でした。紫陽花姫は青年の為だけに舞い、歌った。青年はそれに合わせて草笛で幻想的な音色を奏でた。山に実った木の実を二人で食べた。青年が木の実の汁で口をべたべたにしてしまったのを見て紫陽花姫が笑う。青年が恥ずかしそうに照れる。雨が降った日は、紫陽花姫はいつもよりもずっと元気になって、恵みの雨を全身に浴びながら、村中を駆け回った。青年も一緒になって駆け回り、そして次の日に風邪をひくのだった。その時は紫陽花姫が風邪によくきく薬を煎じて青年に飲ませてやるのだった。一方が笑えばもう一方も笑い、一方が泣けばもう一方も泣いた。時に喧嘩し、もう貴女なんて知らないわと紫陽花姫が泣きながら怒り、そして村長の屋敷にこもってしまう。すると青年はわざわざ屋敷までやってきて、私が悪かったと謝りにくるのだった。例え紫陽花姫の方が悪かったとしても、青年は自分が悪いと言うのだった。紫陽花姫はすぐに機嫌を良くして、青年に抱きつくのだった。そして、あっという間に仲直りするのだった。

二人は本当に楽しい日々を過ごしていた。

 紫陽花姫は、いつかは山へ帰らなければいけないこと、青年と約一年の間会えなくなる事を思うと寂しくなった。毎日のように憂鬱な気分になって、泣いてしまう。しかしその度に青年が優しく励ましてくれたので、すぐに紫陽花姫は元気になるのだった。

 しかし、紫陽花姫はやはり山へ帰りたくなかった。いつもなら山へ帰る頃なのに、いつになっても紫陽花姫は山へ帰ろうとしなかった。山へ帰らねば、いずれ死んでしまうでしょう、もうお帰りなさいと村長が言っても紫陽花姫は頑として動こうとしなかった。青年の言葉にも耳を貸さなかった。紫陽花姫は、青年と別れるくらいなら死んだ方がましだと考えていた。彼女は、かなりの意地っ張りだったのだ。

 そんなある日のことだ。青年の姿が消えたのは。青年はどこかへと消えてしまった。たった一晩の間に。村人達は村の周辺を探したが、青年は見つからなかった。紫陽花姫は、自分が我侭ばかり言ったから青年は自分に愛想を尽かしてしまったのだ、もう自分と会いたくないから村から姿を消したのだと思った。紫陽花姫は泣きながら山へと戻っていった。そして、二度と村人の前に姿を現すことはなかった。

 それからのこと、毎年青年が姿を消した日に、必ず桜村には雨が降るようになった。どれだけまわりが晴れていても、桜村には雨が降る。

 村人は言った。きっと、紫陽花姫が青年を想って泣いているのだろう。その紫陽花姫の涙が雨になってこの村に降り注ぐのだろう、と。

                 〜桜村(現桜町)にある言い伝え〜



 「と、言い伝えではそういうことになっているっすよ」

 化け狸の弥助は、目の前に居る女性に紫陽花姫の話を語った。弥助の前にいる、空色の紫陽花の色の髪の女性は驚いたような表情をかすかに浮かべた。



 「まあ、そんなことになっているの。知らなかった」



 「毎年同じ日に振る雨は、あんたの涙なんだってさ」



 「あれは、私が降らしている雨ではなくってよ」



 「そう、あれは……あんたがかつて愛した男の流す涙っすよ」

 弥助の言葉に、目の前に居る女性……紫陽花姫は目を見開いた。



 「まあ、それはどういうことですの?あの雨は、あのお方が……」

 紫陽花姫はひどく動揺しているようで、かすれた声でそう言った。弥助がこくりとうなずいた。



 「あの男は、人間じゃなかったんですよ。かといって妖でもない。あれは、あっしらよりも遙かに格上の……精霊だったんすよ。人間の世界に興味を持った、その精霊は人に化けてあの村にやってきたんです。名を葵というらしいですが。葵は不思議な力ですぐに村人と打ち解け、そして平凡ながらそこそこ楽しい暮らしをおくっていたようっす。んで、あんたを歓迎する宴であんたと出会って、一目ぼれしちまったと」



 「葵は、あんたと楽しい時間を過ごした。『向こう側の世界』の暮らしは退屈だったそうで。村にやってきて、あんたと会ってからは退屈だと思った日が一度もなかったそうっす。ところが、あんたは山へ帰る時期になっても、自分が村にいるばっかりに山に帰らないと駄々をこねはじめた。このままではあんたは死んじまう。仕方なく、葵はあんたの前から姿を消した」



 「まあ……そう……だったの……」



 「向こう側の世界にあいつは帰った。でも、やっぱりお前さんのことが気になる。あいつは毎年あんたと別れた日になるたびに村へやってきて、あんたと過ごした日々のことを思い出して泣く。あいつの涙は雨を呼ぶっす。だから……ここはいつも雨になる」



 「あのお方は、私のことを嫌いになったのではないのね」

 紫陽花姫は、涙をぽろぽろとこぼした。透明なしずくは地面に落ちて、地面に鮮やかな染みをつけた。



 「ああ、あのお方にもう一度お会いしたい……お会いしたいわ」



 「……今日は、何の日でしたっけね」

 ポツリと弥助がつぶやいた。はっと紫陽花姫は顔をあげた。そして、勢いよく立ち上がった。そして、桜町のある方をじっと見つめた。



 「……あの方は、今どのあたりにいらっしゃるのかしら」



 「さあ?さっき、今にも泣きそうな男の姿なら見かけましたけどね。ほら、山のふもとに幾つもの紫陽花が植えられているところがあるでしょう。あそこの前あたりでみたっすね」

 弥助がわざとらしくいうと、紫陽花姫は弥助に何も言わず一目散にかけていった。桜山のふもとにある紫陽花に吸い込まれるように、紫陽花姫は弥助の前から消えていった。

 弥助は、それを見届けると紫陽花姫の身体の一部である青紫色の紫陽花にそっと触れた。雨も降っていないのに、紫陽花には透明な雫がいくつもおちていた。弥助はそのしずくを一滴だけ手にとった。そして指を下へやって、それをぽとりと地面に落とす。



 「さて、これで毎年この日に雨が降ることはなくなるっすかね。ま、別にどっちでもいいんですがねぇ。いやあ、本当にあっしって人がいいっすねえ」

 自分で言ってどうするんだ、と心の中でそっとツッコミをいれる。そして、弥助は苦笑いを浮かべた。



 「まあ、今日は降るでしょうね、雨。多分、どしゃぶりになるなあ、これは」