千の夜を飛び越えて
第一章 笠
笠女郎(かさのいらつめ)。
という女性がはるか昔、万葉の時代に居た。詳しいことは分からない。ただ、居たことだけは確かである。彼女はとても聡明で、歌を詠ませれば驚くほどの才能を持っていた。
同族に、
笠金村(かさのかなむら)
という男がいた。金村も女郎と同じく万葉の歌人である。
しかし、彼が彼女の血縁者なのか全くの他人なのかは分からない。身分が高くなければ詳しい系譜などが残されなかったため、金村の系譜も女郎の系譜も残っていない。たとえ女郎が金村と血縁であったとしても、彼自身高い身分ではなかったから彼女について語り継がれていることに大した差はないだろう。
女郎の生まれがどこなのか、「笠氏」の故郷が吉備であるから山陽地方であるという人もいるが、吉田金彦氏は近江国(滋賀県)のあたりだと論じている。だが、それすらもはっきりとしない。
分からないことだらけの笠女郎。彼女が今この時代まで名が知られることになるのは、生涯に一度、とても激しい恋をしたからである。
恋の相手は、
大伴家の御曹司、家持(やかもち)である。
「家持殿。…家持殿?」
「ぁ、あぁ、はい。何か?」
「何か?ではありません。先ほどからお呼びしていますのに。…最近のあなたはどこかぼんやりとしておられるようですね。何か、悩みでもおありで?」
天平十一年、秋の深まった佐保である。
大伴家持はいつものように山上憶良(やまのうえのおくら)を呼んで、歌を詠ったり本を読んだりして過ごしていた。
「悩み、というほどのことではないのですがね。」
「含みのある言い方をされますね。私でよければ話し相手になりますよ。」
「いえ、恥ずかしながら恋のことでありますから。」
憶良はなるほど、というような顔をすると、家持のまわりにおかれた文を眺めた。
「妾がお亡くなりになられてからのあなたの噂、いろいろなところで聞いておりますよ。そのことと何か関係がおありですか?」
「私の、噂…それは一体どういうものですか?そちらのほうが気になってしまう。教えてください。」
「いや、なに。大した噂ではありませんよ。大伴家の御嫡男が、先日亡くなられた妾の代わりになる美しい方を探しておられる。とか。」
この時代、顔形の良さだけが美人の定義ではなかったようである。家持はその話を聞くと目を丸くして驚いた。
「とんでもない!そんな噂、大嬢の、…いや、叔母の耳に入りでもしたら大変なことだ。なんと言われることやら。」
「けれど家持殿。噂というのは何かしらの切掛けがなければ流れたりはしないもの。真実ではないにしろ、何かそれに近いことがあるのでは?」
「確かに、いろいろな娘に歌を贈っているのは事実ですよ。けれど私は彼女の代わりを探しているわけではありません。…しいて言うなら、そう。新しく歌を贈りあう人を探しているようなものです。」
「ならばそれこそ大嬢(おおいらつめ)殿がいらっしゃるではありませんか。」
憶良が文を拾い上げながら言うと、家持は自嘲するように鼻で笑い、憶良と同じく文を拾った。
「確かにおっしゃる通りだが。…大嬢(たいじょう)はまだ幼いのですよ。歌を詠むといってもねぇ…。」
「なるほど。」
床に広げた文を丁寧に集めて纏め、文箱へ収める。返事は今頃女たちのもとへ届くころだろう。
「家持殿は、笠金村という男をご存じですか?」
「?あぁ、知っていますよ。聖武天皇にお仕えしている宮廷歌人のお一人でしょう?かなり秀才な歌を歌われるとか。何度かお会いしたこともあるはず。」
「あの男も歌の才に溢れた者です。」
「その、金村殿が何か?」
「あの歌の才能、おそらく血で受け継がれたものでしょう。笠家の娘も、それは秀逸な歌を詠みますよ。大層美しいとも聞いております。」
「娘、ですか。」
目線を庭でさざめく芒に移しながら、閉じた扇で口元を隠した。しかし、憶良にはしっかりと、弧を描く家持の唇が見えていた。
宮廷の鮮やかな朱色の柱は、秋晴れの真っ青な空によく映える。
「(この美しさを、三十一文字で閉じ込めようなどと思うは馬鹿げたことか。いやはや、己の無力さを憂いてばかりだ。)」
金村は頭の中で歌を作っては打ち消し、打ち消しては作っていた。それを七回ほど繰り返してから、立ち止まった歩みを進めて回廊を過ぎる。
天皇からのお呼び出しを受け、儀礼歌を作ってきたばかりだ。
なんだか今日は早く帰りたい気がしている。特に理由はないが。
「金村殿。」
前方から来る影を見つけて金村は少しドキリとした。出で立ちや気配で誰だか分かったが、同時に口をきくのがいつも躊躇われる人だ、と思い出させた。
「これは大伴家持殿。今から出仕なさるのですか?ご苦労様です。」
「いえ、今日はあなたに用があるのですよ。」
「私に?」
廊下の真ん中ではなんですから、と中庭のほうへ歩いて行く家持に付いていく。今日は早く帰りたい気がしているのだけれどなぁと、ぼんやりそんなことを思う。
金村は真面目な男であるけれど、時に宙を浮くようにふわふわとした感性を優先させる癖のようなものがある。出世しないのはそのためであるように思われる。
「それで、用というのは?」
「えぇ。先日、山上憶良殿と話す機会があったのですよ。歌の上手い者を探していると言ったら、「それでは良い方を知っている」と言われて、とある女性を教えてくださったのですが。…金村殿。あなたのところに、歌の才に溢れる娘がいるとか。」
「娘?」
金村は頭の中でひたすらに検索をかけるけれど、該当する人物を探し出せないでいる。
「はて、私に娘はおりませんが?」
「何もあなたにいるかどうかを問うているのではありません。そうですね、笠家には娘は?」
「…兄の所に。もしや、笠女郎のことでしょうか。」
まつ毛が長く眠たそうで大人しそうな顔の割に、少しきつい性格をしている姪を思い出した。あの子はどうしているだろうか。またどこか旅に出た時の歌をちらりと聞いた時には、なかなかいい女に成長したものだと思ったが。そこまで回想して家持を見なおした。
「(女郎がなんだというのだろう。確かこの方は先日妾を亡くされたばかり。まさかなぁ…)女郎ならば今、奈良山の近くに。」
「それはなんとまぁ。ずいぶんとお近くにいらしたものだ。私は佐保にすんでいるのですよ。」
「そうでしたか!佐保は実に美しいところですね。女郎も庭や山々を見ては歌を詠んでいるようですよ。あの子はここへ来てからずいぶんと歌に磨きがかかった。」
「生まれの地を褒められるのはやはり気持ちのいいものだ。一度お話がしてみたいですね。…お急ぎのところ御引き留めして申し訳ない。私の用件は済みました。」
にっこりと笑ってさっさと行ってしまう家持の背中を眺めて、金村は茫然とした。
「(なんだったのだ、いったい…)」
出世心の希薄な金村の心の中にも、上手くいけばゆくゆくは、という思いがある。けれども同時に、急な話といつもの苦手意識に気圧されて、歌が上手いうんぬんよりも重要な、お転婆ともいえる姪の性格を伝えていなかったことを思い出していた。
「(まぁ、いいか。女の扱いは、私なんかよりもずっと得意であろう人だ。心配はいらぬさ。)」
楽天的な考えも、後世に伝わる金村の情報の少なさの原因だろうと思う。
しばらく会っていなかった姪の名を出して、金村自身彼女に会いたくなった。
「(久方ぶりだ、会いに行くか。)」
引き留められた時間を惜しむように、早足で宮廷を後にした。
「まぁ、金村様。」
「いやはや、すっかり娘になったね、女郎。ほら、途中で拾ってきたのだよ。可愛い姪のためにね。」
指先で真っ赤に色づいたもみじをつまんでくるりと回してみせた。
「あまり会いにきてくださらないくせによくもそんなことおっしゃいますね。」
金村の指先からもみじを受け取ると、女郎も同じようにくるりと回してみる。四方にめぐる葉脈隅々まで赤く色づく美しさに、うっとりとした顔をして見せて、金村を満足させた。
「常日頃、会いに来たいとは思っているのだけれどね。なかなか忙しいものだから。でも、お前の歌の評判は常々、耳に入ってきているよ。秀逸な歌を作るとね。」
「そんなことはありません。まだまだ未熟です。」
「そうだ、…文や歌は届いたかね?」
眠たそうに葉を弄ぶ横顔へ、家持の顔を思い浮かべながら問う。
「文?歌?…いいえ。一通も。特にそういったものは届いていませんけれど。金村様、私に手紙を書かれたのですか?手紙よりもご本人が先にいらっしゃるなんて、ふふ。可笑しな話ですね。」
「そうか。さすがにな。そんな早くには…うむ。それならばいいのだ。文の相手は私ではないけれどね。」
首をかしげる女郎を半ばほったらかしにして、金村は朗々と歌を詠んで笑った。
第二章 逢
家持は文机に頬杖をついてぼんやりとしていた。女郎への手紙を書くためである。
「(姿も何も見たことはないが、さて、どういうふうに書こうか。)」
しばらく悩んでから、涼やかな目元をほころばせた。庭に女郎花が揺れている。黄色い花が、存在感を示している。家持の好きな花のひとつである。
「(金村殿はどこか頼りなげな男だが、姪だという彼女はどうだろうか。歌を聞く限りでは、どこか女郎花のような人であるような気がするが。)」
形の良い眉を持ち上げて、歌を詠むときのように目を瞑った。まぶたの裏には想像の女郎が浮かび上がっている。家持は妾が亡くなってから初めて、心がうきうきとするのを感じた。
「家持様、文が届いております。」
「持ってきてくれ。誰から?」
「坂上大嬢様からでございます。」
「ほぅ。大嬢から。どれ、」
夏から途絶えていた歌の贈答を、再び始めていた家持だが、婚約者へというよりは妹へ向ける目で、歌を詠み、大嬢を見つめていた。
「(以前よりは大人びたが、まだまだ幼いか。)」
稚拙な歌が、そこでは詠まれていた。
歌の返事にはまんざらでもないような事を書いておいた。どうせなら喜ばせてやりたいのが本音だ。家持は心の中で、叔母である坂上郎女ほど、大嬢は歌が上手くはならないだろうとふんでいる。
「すまないが、この手紙を笠女郎殿のところへ届けてもらえるかな。」
「はい。」
文には秋らしく、もみじを付けておいた。
返事はすぐに来た。
『咲いてもいない花を愛でることができる器用な人なのですね。けれど、貴方の想像の中の私と、真実の私はかけ離れたものでしょう。お会いするのが恐ろしく思えます。』というような事が書かれていた。家持は思わず笑ってしまった。
「なるほど、彼女の言うとおり。」
家持はもう一通手紙を出した。
『それでは私の中の貴女が、この世のものとも思えないほどに美しくなってしまう前に、本物の貴女に会いに行くことにいたしましょう。』
と急いで書き、女郎からの返事が来る前に、笠邸へ向かって馬を走らせた。
庭は少しずつ、しかし確実に秋の色を寒く変えている。
女郎はそんな庭を眺めながら、後ろから近づく気配に詠う手を止めた。
「私の手紙はそんなに早く届きましたか?家持様。」
「待ちきれなかったのですよ。それに、」
家持の静かな足音に、女郎は右耳が少し見える程度振り向いた。耳を傾けた、というほうが正しいほどかすかな動きであった。
「それに?」
「貴女からの返事は、なんとなくわかっていますから。」
「あら、ずいぶんな自信ですね。私は、あなた様の顔も見たことがありませんのに。」
耳を傾けていた女郎は、そっと筆を取ろうと指を動かした。
「あ、」
「噂ぐらいは、耳にしたことがあるのでは?」
女郎は掴まれた自分の右手を見た。自分を捕らえる手は白く、あまり男らしくはないけれど、手首にかかる力の強さは、男のものだとしっかりわかる。
しかし、女郎はそんなことでひるむような弱い女ではない。
「世の女がみな貴方の思い通りになるなんて、ずいぶんとつまらない恋をされてきたのでは?私をそんな女たちと一緒にされては困ります。」
掴む手をたどって、家持の顔を見た。女郎の言葉に驚いている家持の顔の幼さに、女郎はなんだか可笑しくなってしまった。
こんなにも少年のような人が、あんなにも自信に満ちたことを言うのかと、顔と言葉の差異が面白く、耐えられないほどの笑いがこみ上げてくる。
「ふふっ」
「…確かに、いままでの女性たちとはまるきり違うようだ。そんなことを私に言う人は誰もいなかった。ましてや、私の顔を見て笑うなんて。」
一度こみ上げてしまった笑いはやめ方を忘れてしまったようにとまらない。
「ふふふ、いえ、ごめんなさい。貴方があまりにも。ふふっ」
「おかしな人だなぁ。なんです?私の顔に何かついていますか?」
「いいえ、いいえ。そうではありません。」
家持はあきらめるように手を離すと、そっと女郎の隣に座った。
「(不思議な人だ。)」
今までの女とはまったく違う女郎の言動に、心が騒ぐほど興味がわいてくる。
「(この人は何か違う。)」
眠たげなまつげに彩られた黒目勝ちの瞳が家持を捕らえる。
そのときを見計らったかのように、家持はそっと微笑んだ。
「落ち着きましたか?」
「…貴方は、不思議な方ですね。」
「(貴女がいうか。)そうですか?」
目元が涼やかなぶん、まじめな顔になったり微笑んだりすると、つまり、意識的な表情を作ると、驚くほどに大人びる男である。
「(なるほど、女方が放っておかないわけがわかる。魅力的ではあるのだろうけれど。)」
「やはりなにか私の顔についているのですか?」
「いいえ。貴方のような方が、どうして私などに興味をもたれたのか、気になったのです。」
眠たげな瞳をみつめ、何と言おうかと思案する。
「先ほども申しましたけれど、私と貴方はなんの面識もないはず。噂が流れるほど派手な生活もしておりませんし。」
小さく薄い唇が遠慮がちに開かれる。顔立ちは似ていなくとも、口元が叔父の金村と似ている、と思う。おそらくそのあたりは父親譲りなのであろう。
「貴女の歌を詠んだのです。あれは、どこへ行った時のか忘れてしまいましたが、貴女がどこか旅に出た時に詠んだ歌だとか。」
歌を思い起こすように家持は眼を伏せた。思い起こすふりをして、絶妙な間を開けて再び女郎の目を見つめた。
「実に美しい歌でした。こんな歌が詠めるのは、一体どれほど美しい方なのか、と。気になると眠れぬ性質なので。」
ようやく突き止めました。と家持が笑うと、女郎も満足げにほほ笑んだ。
「お世辞がお上手なのですね。」
「世辞などではない。本心です。」
「いいえ、私は未熟です。本当ならば、もっとこの美しい自然を表現できるはずなのです。」
「貴女の表現は秀逸です。目を見張るものがある。」
「あまりおだてないで下さい。本気にしてしまいそうです。」
「本気にしてくださって結構。」
家持はそっと女郎の手を再びとった。
女郎も抵抗を見せることはなく、家持の思うままにしている。
「この土地は、どうですか?貴女の叔父上にお会いしたとき、貴女がこの土地を気に入ってくださっていると聞きました。」
「はい。ここはとても美しいところです。本当に。草木や山々だけではありません。吹く風までもが美しいのです。」
女郎の細く、華奢な指先を弄ぶ。秋の冷たい風に冷えたのを、温めるための行為であるように女郎には思えた。
「生まれの土地が誉められるのは実に名誉なことです。私はそれを聞いた時、本当にうれしかった。」
両の手で女郎の右手を包み、ほっと暖かい息を吹きかけた。
「けれど、美しいからと言って日がな一日外を眺めていては、体を冷やしますよ。佐保の秋は寒い。」
「その寒ささえも愛おしいのです。」
「…、やはりあなたは変わっています。今までの女性たちの中でも、特別です。」
そう言ってふいに立ち上がると、懐へ手を突っ込み、懐紙を取り出して女郎へ渡した。
「途中で摘んできたのです。愛しい方へね。」
もみじが二、三枚入っていた。
「まぁ。」
見頃は過ぎたはずのもみじは赤色が濃く、普通のものよりもずっと綺麗だった。
「ほとんど散って踏まれて汚れてしまっていたのですがね、木の上のほうは綺麗だったから。」
「従者に取らせたのですか?」
「いいえ。もちろん私が取ったのですよ。」
「届きましたか。」
「背伸びして目一杯腕を伸ばしたのですが、届いた場所のものは色がいまいちでね。意を決して飛びあがったらきれいなところが取れたのですよ。」
「家持さまが、飛び上って、」
「えぇ。一度ではうまく取れなくて、二度三度飛び上りましたよ。地面がぬかるんでいたから、転びそうになりながらね。」
再び見た目と行動との差異に笑いがこみあげ、女郎は頬が痛くなるくらい笑った。
家持はひとしきり笑う女郎を嬉しそうに眺めていたが、やがて笑いが少し落ち着くと、そろそろ帰ります。と告げた。
「今日は帰りますが、また来ます。」
「はい。」
「今度は手紙でなく、歌を。」
「では貴方も、返事が届いてからいらしてください。」
もらったもみじの一枚を、家持の襟の部分へそっとさした。
「返事を待たずに急いだのも、貴女だからですよ。」
「お世辞がお上手なのですね。」
二度目の遠慮の言葉は、他の女と同じ方法では堕ちないと言外にけん制していた。
第三章 恋
真っ白な雪がふわふわと降りてくる。朝日がほんの少しだけ姿を現す頃、女郎はそっと目を覚まして外を見た。外気が一気に部屋へ流れ込んで、身を震わせる。
昨夜隣にいたはずの家持は、すでに身支度を整えて出ていったようだった。
「(まだ早い時間のようであるけれど…。)」
「女郎殿、」
「家持さま、どこにいらっしゃるのですか?お声だけしか、聞こえませんが。」
外から聞こえる声に耳を澄ませると、屋敷の外、柵の向こうにいるらしい。
「外は冷えます。暖かい格好をして。…今日の日中、また参ります。」
返事も聞かず、家持の気配は遠ざかった。
「(忙しない方。もうすこしゆっくりして行ってもいいものを。)」
女郎は着物を纏うと、そっと雪の積もる庭へ下りた。
日がだいぶ顔を出し、一面の雪景色をきらきらと輝かせる。
「(家持さまは雪のようなお方なのでしょう、きっと。)」
女郎は冷たさが指を冷やすのもお構いなしに、子供のような仕草でと雪玉を作った。
もうすでに家持の居ない柵の向こうへ雪玉を投げる。わぁっと驚く声がした。
「か、金村様!」
「や、やぁ、女郎。」
「家持殿と、その後どうかね?」
肩に乗った雪玉のかけらを払い落しながら、金村が聞いた。
屋敷に上がるとすぐに火桶の前へ座った。女郎は火桶から離れて庭に下りている。そんなところに居ると体が冷えるよ、と呼び寄せたが、女郎は平気ですとだけ返してまた雪の中にうずくまっていた。
「つい先ほど出て行かれました。また日中に来るとおっしゃっておられましたが。」
「そうかそうか。上手くいっているようでよかった。」
「あまりよくありません。」
「なぜ?」
火桶に当たりながら首をかしげる。女郎は声音とは逆に穏やかな顔をしていた。
「日常があの方を中心に回るようになる。そうなっていっても良いと思っている自分がなんだか自分でないようで…」
家持には今までの男たちとは違う、圧倒的に惹きつけられる何かがある。女郎はそう思っていた。
「若さだろう。」
「あら、そんなに年は離れていませんよ。」
「それでもお前よりいくらか若い。それからあの類まれな家に生まれた自信、そこから見える未来みたいなことが魅力として見えるのだろうよ。」
暖められた手をこすり合わせて、金村はもう一度女郎を呼び寄せた。
「若い娘が体を冷やすものではないよ。」
ようやく火鉢に近づいた女郎の手を包んで言った。
「(家持さまとはまったく異なる手だ。)寒い方が好きなのです。」
ごつごつとしていて、大きな手だった。
「変わった子だねぇ、お前は。」
すっかり冷えてしまっていた指が、火桶の暖かさでじんじんと溶けるように疼いた。
「おや、また降り出した。…いつまで降るのか。」
「新しい雪が積もってまた綺麗になります。」
「早く春が来ればいいんだけれど。」
「冬はお嫌いですか?」
嫌いではないけどね、とため息交じりに答えながら、金村は腰を上げた。
「体を冷やさないようにするのだよ。」
「分かっています。(みな同じようなことを言うのね。)」
家持のことを思い出してほほ笑んだ。
「険しい顔ですね、家持殿。」
「憶良殿…険しくもなりましょう。都を移すと聞けば。」
女郎と出会ってから一年がたった。天平十二年、十二月のことである。
「帝は先々月の末からの行幸で伊勢へ行かれ、その後各地を転々とされていましたな。」
「伊勢、壱志郡、美濃、滋賀郡、山背国相良郡玉井、恭仁。金村殿がお忙しそうでしたが。」
「つい先ほど姿を見ましたよ?」
「行幸自体は先月で終わっていますからね。遷都が決まって帰ってこられたのでしょうよ。」
雪を踏みしめながら二人は朱雀門を潜って外へ出た。
「ところで、その金村殿の姪とはいかがですか?」
「時間があればなるべく会うようにはしています。今日もこれから。」
「そうですか。やはり美しい娘であったでしょう。」
「確かに。ただ、」
「ただ?」
「何やら変わった方でしたよ。…まぁ、美しいだけではつまらない。と言ったところでしょうか。」
「はははっ、なるほど。貴方らしい見かただ。でもあまり女性をからかって見ていると、足元をすくわれかねませんよ?」
「肝に銘じておきます。なに、心配はいりませんよ、憶良殿。こう見えて結構本気なのです。」
「大嬢殿には聞かせられませんね。」
しばらくいって憶良は右へ、家持は左へ曲がった。
「(大嬢にも最近会っていなかったな。)」
ふと思い立ってそのまま笠邸へは向かわずに、大嬢のいる屋敷へ歩いていった。
夕暮れに笠邸に着いた。雪はすでに止んでいて、空の半分が赤く焼けている。カラスの影さえも美しく見えた。
「女郎殿。」
上がりこんですぐに女郎を呼ぶが、後姿のままで動こうとしない。
「(いつだって後姿なのだな、この人は。)女郎殿。…」
返事さえしない女郎に焦れて、トントンと足音を立てて近づく
「女郎殿、私の声が聞こえませんか?」
「家持さまでしたか。…来ると思っていない方の声がしたので気のせいだと思ったのです。」
女郎はしれっとした顔でそう言うと、再びそっぽを向いてしまう。
「また会いに来ると、伝えたはずですが?」
「私が会うとお約束した家持さまは日中会いに来る≠ニおっしゃっていましたが?」
すっかり拗ねてしまっているな、と思い、女郎の背中に寄りかかるように自分も背中合わせで座った。
「はずすことの出来ない用事というものが、男にはあるのですよ。」
「仕事ですか?」
「用事です。」
「含みのある言い方をされるのですね。」
少し体重をかけると、抵抗するように押し返してくる。
「怒らないで。」
身体を預けていた背中から離れ、拗ねる女郎の顔を覗き込むようにする。
わざと眉毛を下げて弱った顔をし、けれど口元は少し微笑む。
それでも女郎は絆されまいと家持とは逆のほうを向いて応戦した。
「機嫌を直して。あなたが笑ってくださらないと、せっかく来たというのに意味がなくなってしまう。」
「何しにいらしたのです?」
「もちろんあなたに会いに来たのですよ。愛おしい人に会いに来たのだから、笑っている顔が見たいというものでしょう。」
ね?と首をかしげると、女郎は大きなため息と一緒に「まったくあなたという人は。」と呆れたように言った。
「こういうときばかり年下ぶって。」
「そう。あなたのほうが年上なのだから、甘やかしてください。」
「まぁ。」
呆れた、と言いながら笑う女郎に、家持はようやく安堵した。安堵しながらも、次に何を言おうか、と考えを巡らせる。
「今日はずいぶんと温かそうな格好をされているのですね。」
厚手の着物を羽織って、火桶で指先を温めている姿は珍しいと思う。
「今日は殿方二人に温かくしなさいと言われてしまいましたから。」
「一人は私でしょう。もう一人は誰です?」
「金村様です。若い娘が身体を冷やすものじゃないと。」
「(金村殿か…)金村殿の言うとおりです。体調を崩してはいけませんからね。」
火で暖められた指先にそっと触れる。
「家持さまの手はいつもひんやりとしておられるのですね。」
「そうでしょうか。あまり意識した事はありませんが。」
一本一本確かめるように指を撫でると、くすぐったい、と小さく笑った。
「金村様といえば、…聞きました。都を、恭仁へ移すのだとか。」
「…えぇ。」
「お伴していかれるのでしょう?」
「そうです。今日はその話もしなくては、と思っていたのです。心苦しくはありますが。」
今までのようには会いに来られなくなる、と言うと、
「では、渡したいものがあるのです。」
「渡したいもの、ですか。」
立ち上がって奥へ行き、すぐに戻ってきたときには少し大きめの包みを持っていた。
「これは?」
「衣です。少しでも、私のことを思い出していただきたいので。」
「女郎殿…あぁ、これで安心しました。きっと身に着けます。日に幾度もあなたを思い出すでしょう。」
家持はそっと女郎を抱きしめた。甘やかな花のにおいにうっとりと目を閉じると、小さな手が背中に沿うのを感じた。
第四章 露
恭仁に降る雪は、佐保に降る雪よりもずっと冷たく感じます。貴女から遠く離れているせいでしょうか。
夜は月の光も届かぬほどに闇が深く、一層さびしく感じます。
そちらはどうですか?冬がお好きだから、寒いのはあまり気に留めないのでしょうが、薄着の多い貴女のことです。体調を崩していなければよいがとそれだけが心配です。
ふぅ、と息をついて家持からの手紙を閉じた。寒さは気にならなくとも、寂しさはどうしようもないくらいに込み上げている。
どうせ来ない。あのお方は遠い地にいるのだから、と頭ではわかっていても、心はなかなかそれにはついて来てくれない。
恭仁へ行く少し前、それでも帰ってこられそうであれば何度か帰ってくると言っていた。
それがいつになるのかは分からないとも言っていたけれど。
「いつごろお帰りになられるのでしょうか。…こんなこと書いたら、ご迷惑かしら。」
書いてしまってから思い立ったけれど、消すことも出来ずにそのまま続けた。
手紙の最後には
わが形見 見つつ偲はせ あらたまの 年の緒長くわれも思はむ
(私がさしあげた形見の衣を見ながら思い出して下さい。年月長く私もお慕い申しましょう。)
と、歌を添えた。
「(不公平だ。待っているしかないだなんて。)」
ほんの少し頬を膨らませて、文使いへ手紙を渡した。
会うことができればこんなに面倒なことはしなくてもすむ。次に逢えるのはいつになるのか。その答えが書かれた手紙がくるのがいつになるのか。二重に待たなくてはならなくて、まどろっこしさにため息が出た。
濁った雲の間から、真っ白な雪がふらふらと降りてくる。家持からなんの返事も変化もない。
雪はもう三日も降り続いていた。
部屋の中は怖いくらいに静かで、空気は凍り付いている。はく息が白く固まって、寒さを一層際立たせていた。
「(耳が痛くなるくらいだ。)」
寒いのは本当に好きだ、と思う。閉ざされる空間が、感覚を研ぎ澄ましてくれる。
薄着のままで雪の庭に下りた。
なるだけ綺麗な雪を夢中になって集めた。
南天の実と柊の葉を拾って、耳と目を造ってやった。
あんまり夢中になって雪を集めたせいで、なんだか太った兎になった。
「なんだか不恰好。」
太った雪兎を雪の上において、かじかむ指に息をかける。
ふと裏口のほうを見て、人の気配に警戒する。
「体を冷やしてはいけないよと、あれほど言ったのに。あなたという人は…」
さくさくと雪を踏みしめて、焦がれた男が近づいてくる。兎の前で立ち止まった。
「今日は前を向いていてくれたのですね、女郎殿。」
「家持さま…」
少し厚手の肩掛けをかぶせられ、そのまま肩掛けと一緒に抱きしめられた。
「あぁ、こんなに冷えきって。」
「また、…またあなたは、返事よりも先にいらっしゃるのだから…。」
胸に顔を埋めて存在を確かめる。
着物に焚きこめられた香の香りを吸い込んで、確かに家持だと当たり前のことを思う。
「返事を書くのさえもどかしいのです。」
「待っているこちらの身にもなってください。思い焦がれて、やきもきして、なんの前触れもなく現れられた心が持ちません。あなたは、…!」
唇に触れた感触に思わず黙ってしまった。
顔を離した家持はいたずらが成功した子供のように笑う。
「責めないでください。怒らないで。久方ぶりに逢えたのだから。」
「もう、本当に…、仕方のないお人。」
火桶にあたろうと、家持に手をひかれて屋敷へ入る。明日には恭仁へ帰ってしまうという。
そう聞くと女郎は、過ぎていく一分一秒が切なく思う。
翌朝、目を覚ますと、隣のぬくもりは既に残ってはいなかった。
まるで夢を見ているようだ、と脱ぎっぱなしにしていた着物を手繰り寄せる。
動いた自分の身体から少し、花の香りがした。
雪がしっとりと解けだして、小川に澄んだ水が流れていく。寒さの中に暖かさを感じる時間が少しずつ増えた。
「女郎、女郎。」
呼びかける声に外へあるくと、金村がにこにこと手を振った。
「お久ぶりですね。」
「本当に。まったくここ最近は忙しくしていたからね。ほら。」
手にいっぱいの花を見せて、最後に会ったときから季節が変わってしまった。と笑った。
「いろいろなことがありすぎた。」
女郎が首をかしげながら奥へと促す。桃色の袖が揺れると、金村は春だなぁと呟いた。
「男の方はみな金村様のようにお忙しいのでしょうね。」
「忙しい。忙しいとも。位が上がれば上がるほど忙しいさ。また、家持殿から音沙汰がなくて拗ねているのかね?」
「拗ねているわけではありません。お仕事であれば仕方がないこと。そのようなことに口を出して嫉妬するように軽い女ではありません。」
「仕事であれば、ね。なにか言いたげじゃないか。」
若草色の肩掛けを引きよせて座る女郎の隣へ、からかうような口調で金村が座った。
「大嬢殿のことかね?」
「それこそ野暮なこと。あの方は家持さまのご正妻。頻繁に通われておかしなことなど何一つありません。」
「ほぅ。では何が不満なのだか。」
「…、と思うのです。」
「え?」
小さな、小さな声で言ったので、金村は耳を寄せて聞きなおした。
「ですから、少しくらい、と思うのです。待ってばかりはうんざり。」
「困った娘だね。…でもきっとそのうちいらっしゃるだろうよ。こちらへ帰っては来ているようだから。」
「そうなのですか?」
歌も手紙も届いていない。初耳だった。本人からではなく、まさか金村から聞くとは思わず、女郎はなんだか腹立しくなった。
「(また突然現れて、私を驚かそうというおつもりなのかも。)」
思い至って納得した。そうであればその時まで、うきうきと待っていられるような気がしたのだった。
しかし、予想は外れ、家持はそれから五日経っても来る気配さえ見せなかった。
「(どうかしている、こんなこと。)」
女郎は着物の裾を汚れないように少し持ち上げながら、外をこっそりと歩いていた。
「(本当はいけないのに。)」
頭は踵を返せと叫ぶのに、足は言うことをきかずにずんずんと裏山のほうへ向かっていく。
どうしようもない思いが、身体を勝手に動かしていた。
木陰に風が吹くと少し寒い。裏山はちょうど、大伴邸を望める。
「(気狂いがすることだ。)」
大伴邸の屋根が見えたあたりで、そっと佇む。
昼間に女が一人、男に会うため外へ出る。
こんなことが知れたら大変だ。と思うのに、心はそんなことお構いなしと身を乗り出させた。
声が聞こえることも、姿が見えることもなく、けれど女郎はそうして二時間近く松の下で家持を一目見るために待った。
春といえどもまだ肌寒い。凍えるように自分を抱きしめると、虚しさに涙が出た。
「(何をしているのだろう、私は。)」
そっと悲しみを引きずりながら、屋敷へ戻るとすぐに筆をとった。
君に恋ひいたものすべ無み奈良山の 小松が下に立ち嘆くかも
(あなたに恋焦がれて何とも仕方がないので、奈良山の小松の下に立って嘆くことよ。)
返歌は来ないかもしれないと、何となく思っていた。
実際二日後に送られてきたのは手紙で、文面には逢いに行けないことを詫び、会いたいとは思っているし、いつでも女郎のことを想っていると書かれていた。
「(嘘ばかり…。本当であるのなら一度くらい…。)」
先日も大嬢のところへは出入りしているようだと聞いた。
「(私ばかり想っているようで、本当に不公平だ。あの方から近づいたというのに。)」
最近本当に涙もろくなった、と女郎は涙をそっと袖で受け止めながら庭を見た。
夕日に輝く草の表面に、午前中にちらりと降った雨の露がきらきらと光り、風が吹いて、草が揺れると、ぽたんと落ちてなくなってしまった。
寂しさや悲しさよりも、報われない自身の恋心が哀れでならなかった。
わが宿の夕影草の白露の 消ぬがにもとな思ほゆるかも
(わが家の庭にある夕影草の白露のように、消え入らんばかりにむしょうにあなたのことが思われることよ。)
手紙が届いてからすぐに歌を詠んで返した。
「(想いが伝わらぬことほど報われないことはない。)」
三日ほど経って手紙が届いたその日は雨がしとしと降っていて、昼間でも夜を薄く溶いたような色をしていた。
文使いは急いでやってきたらしく息を切らしていた。
「家持様からです。」
「ありがとう。」
文使いにそっと手拭いを渡したが、どうせまた濡れますので、と言って帰っていった。
手紙の中には桜の花びらが数枚入れられていて、開いたのと同時にひらひらと舞った。
なんと言い訳すればよいのやら、申し訳ない気持ちでいます。逢いたいと思っています。ただ、なかなかその機会がない。悪い男だと罵ってくださっても構いません。けれど、私のことを嫌ったりしないでください。募る思いを宥めて、日々を過ごしております。
思いつめあなたが夕影草の露のように消えてしまう前に、なんとか逢いに行きたいと考えています。
「手紙は、読んでくださいましたか?」
笠を取り、家持が雨に打たれながら女郎を呼んだ。
「返事の前にいらっしゃったり、返事と一緒にいらっしゃったり。本当に待てない方なのですね。あなたは女性にはなれないでしょう。」
女郎の言葉にうなだれて、ちっとも上がってこようとしない。
「そんなところにいては濡れてしまいますよ。」
「怒っているでしょう、あなたは。」
「なぜ?」
「いままで幾度となくこちらへ帰ってきたけれど、ここ来ることができたのは今日が初めてだ。ずいぶんと待たせました。」
「そんなこと。」
雨に濡れた家持の手を引いて屋敷に入るように促す。
「怒ってなどいません。貴方が前におっしゃったのですよ?」
「私が?」
「えぇ。“怒らないで。久方ぶりに逢えたのだから。”と。」
申し訳なさそうに家持が眉を下げるので、代わりに女郎は笑って、
「あなたのほうが年下なのですから。甘えていればいいのですよ。」
「女郎殿…。」
抱きしめてくるので抱きしめ返したけれど、女郎にはなぜだか切なさだけがこみあげてきていた。
第五章 畏
日の光から隠れるように布を頭からかけて、伊勢の海辺をさらさらと歩いた。
「女郎、あまり波に近づくと攫われてしまうよ。」
「大丈夫です。気をつけていますから。」
寄せてはかえす波の動きに合わせるように追いかけたり逃げたりを繰り返す。
金村は頬を緩ませる女郎をみて安心した。
ここ最近、ひどく塞ぎこんで食事もままならず、目に見えるほど痩せてしまった。
もともとあまりふくよかではなかったので、その痩せようは見ていて哀れになるほどだった。
「もう昼時か。女郎、そろそろ戻ろう。」
「私はもう少し。」
「食事の時間だ。いったん戻ろう。そしたら少し休んで、涼しくなるくらいにもう一度くればいい。海は逃げないのだから。」
「…はい。」
細い肩を抱き寄せる。金村は気休めに、惚けた歌を詠んでみた。
女郎が声をだして笑った。
昼食には海老とたこ、小魚と、乳粥と鴨の肉の汁物、きゅうりと茄子の漬物などが用意されたが、女郎はその半分ほどしか手をつけられなかった。それでも佐保にいたときよりもよく食べた。
「日が陰るまでは屋内にいたほうがよさそうだ。ずいぶんと日が強いから、肌が焼けてしまうよ。」
「えぇ。」
しばらくは歌を作りあって過ごしていたが、じきに金村が眠ってしまい、女郎はいっぺんに暇になった。
日が傾くにはまだ少し時間がある。かといって何もしていないと余計な事を考えてしまいそうで恐ろしい心地になった。
気持ちよく眠る金村を起こすわけにもいかない。
女郎はそっと金村の顔を覗き込んだ。
「(男の方というのは、眠るとずいぶん子供らしくなるものね。)」
家持の眠る姿も、とてもあどけないと思う。
夜、とろとろとした金色の月光に闇が薄まって、そのすきに見える寝顔に、たった一度きり、口付けをしたことがある。
珍しく家持よりも先に目が覚めた日だった。
いつもは眼がさめれば形も余韻もなく、朝が来るたびに夢であったのではという恐怖に身を震わせていたが、その日はまだ眠る家持を見ることができて、しばらくの間とても幸せな気持ちで過ごしたのだった。
「金村様、女郎は少し海に行ってきます。」
「んぅ。」
夢の中のままで返事をされて、笑った。
日は傾き始めている。体感温度はずいぶんと下がった。
海の近くで暮していないせいか、潮騒が心を落ち着かせない。
「(ここで暮らす人々には心やすらかな音なのでしょう。)」
砂浜を歩くと、色とりどりの貝殻が落ちていて、女郎はその一つ一つを確かめながら、気に入ったものは拾った。
くるくると巻いていて深さのある貝を耳に当てる。
「小さな海…。」
貝の中からざざぁんと波の音が聞こえた。
木陰に座って海を眺めていると、静かに、夕日が海の中に沈んでいく。
鳥と、波と、風の音だけが世界を構築していると思えるほど静かだった。
「 …伊勢の海の磯もとどろに寄する波 畏き人に恋ひ渡るかも(伊勢の海の磯もとどろくばかりに寄せてくる波のように、おそれ多いお方に恋い続けることよ。)
家持さま、」
「女郎!」
「金村様。」
「突然いなくなるから焦ってしまったじゃないか。」
「あら、出てくるときにお声はかけましたよ。でも、とても気持ち良く眠っていらっしゃったから。」
「でもよかった。」
心底安心したという金村の表情に申し訳なさと、嬉しさを感じて笑った。
笑うと金村も嬉しそうな顔をするのが好きだった。
「それにしても、美しいね、ここは。」
「はい。でも、」
「ん?」
「私は佐保のほうが好きです。」
「そうかい?」
「波のざわめきよりも、木々のざわめきのほうが落ち着きますから。」
連れてきてもらった身で早く帰りたいとは言えず、ただ黙って金村の腕を引いた。金村にも女郎が何を言わんとしているかが何となくわかり、「帰ろうか。」と呟いた。
「おっと、」
女郎から届いた手紙の中から、小さな貝がころころと転がった。
伊勢の海の磯もとどろに寄する波 畏き人に恋ひ渡るかも
(伊勢の海の磯もとどろくばかりに寄せてくる波のように、おそれ多いお方に恋い続けることよ。)
「(畏き人、皮肉か…?それとも、)」
深く考えているとどうも面倒くさいほうへ考えが行ってしまう。
素直に自分を敬っているのだろうと考えることにして貝殻を横に置くと筆をとった。
女郎との手紙のやり取りの中で、家持はついつい歌を避けてしまう。
なんと返そうか、と考えているだけで日が暮れてしまう。
もう数か月逢いに行っていない。ぐずり出しているのだろうと考えて、暇を見つければ一番に会いに行きましょうというような内容で返事を書いた。
「(と言っても、しばらくは会いに行けまい。)」
小さな貝を耳に当てると、かすかな潮騒が聞こえた。
すすり泣くような音にも似ていて、家持はいらいらと頭を掻いた。
とたとたと軽い足音で、憶良が顔をのぞかせた。右手をあげて存在を示す。
「どうしました、家持殿。心穏やかではありませんなぁ。」
「えぇ、まぁ。」
「足元、掬われましたかな?」
「いえ、今のところはまだ。」
からかう声に真剣に答えると、憶良は心配そうに顔を覗き込んできた。
「本当にどうしました。」
「なんでもありませんよ。」
「なんでもないというような顔ではありませんが?笠女郎殿と、うまくいっていないのですか?」
書簡に目を通しながら、左手で今届いた手紙を見せた。
「ほぅ、畏き人と来ましたか。なんと返したのです?」
「それなりに。」
「また歌は避けられたのですね。大伴家持ともあろうお方が。」
「なんと返したらよいものか、考えるだけで疲れます。」
「先日の夕影草の歌には震えました。あの方は本当に歌の上手な方だ。いや、そんな表現では失礼なほど。」
「私の身にもなっていただきたい。」
憶良はふふっと鼻で笑い、
「あなたから仕掛けたのだから仕方がありませんな。」
と言った。
「それはそうですがね。」
「先日金村殿と話す機会が。」
「ほぅ。」
「姪に元気がない。どうにかならないかと伊勢へ連れていったけれど、姪は佐保のほうが好きらしい。と、ずいぶん肩を落とされていました。…ずいぶんと、痩せたとも言っていましたよ。」
「何がおっしゃりたいのですか?」
「さてさて。私はあなたの味方ですので。」
からかうような言葉を使いながら、声と表情は真剣に言った。
「暇になれば逢いに行きます。」
「まだ忙しさは続きそうですからねぇ。」
おや、貝殻。とおどけて小さな一つをとりあげる。
「うぅむ。伊勢の潮騒ですか。…畏き人は、本心でしょうよ。」
最後に観た表情は、どんなだったか、家持にはもう思い出せない。
怒ってはいなかった。けれど笑っていなかったようにも思う。
「(逢えば顔を見るだけではとどまらない事など、わかりきっているのだから。)」
時間が許してくれないのだ、と言い訳がましく思った。
その夜、夢の中で女郎によく似た後姿を見た。
「(あぁ、またそっぽを向いてしまっているじゃないか。夢に出てくるほど私を想っているくせに、そっぽをむいて気のないふりとは。)」
女郎殿、と呼びかけると、拗ねたような顔で振り向くけれど、すぐにほほ笑むのでつられて笑った。すると女郎は笑顔のままで悲しそうに眉を下げて、泣きそうな顔で消えてしまった。
あ、と思って目が覚めた。梅雨は明けたはずなのに、真夜中の都にはざぁざぁと激しく雨が降っている。
湿気が体にまとわりついて不快だった。
女郎の思いであるような気がした。
第六章 暗
夢の中で家持に会った。それだけで女郎の心は少しだけ浮上する。
贈った貝を耳に当て、目を閉じる姿を静かに見る。懐かしい声で「女郎殿」と呼ばれたので、涙が出た。泣き出す女郎を慰めるように抱きしめてくれるのに、抱きしめ返そうとすると霧のように消えてしまった。
目が覚めていつも思う。
「(実際に会いにきてくださればこんなもどかしい想いをしないで済むのに。)」
いらいらと感情だけが先走って、唯一家持とつながることができる手紙へ矛先が向いてしまうのだった。
夕さればもの思ひまさる見し人の 言問ふ姿面影にして
(夕方になると物思いがだんだんひどくなります。お会いした方のものをおっしゃるお姿が、面影に現われて。)
切なさがにじみ出るような歌の後すぐに、
思ふにし死するものにあらませば 千度ぞわれは死に返らまし
(恋人を思うということで死ぬものであったなら、千度も私は死ぬことを繰り返すでしょう。)
こんな皮肉めいた歌も贈ってしまう。それらに返歌はいっさいなく、どう考えても家持が三十一文字を避けているようにしか思えない。
「(歌にこたえる気がないのだ、あの方は。私の思いに、こたえる気などない。)」
季節がまた、恋しさを増す秋へと移ろうとしている。
結局家持は夏中逢いには来なかった。しかし、相変わらず大嬢とのうわさはよく耳にする。それが女郎には腹立たしいのだ。
「(ご正妻である大嬢様に嫉妬するのは割に合わないことだ。けれど、)」
悔しい、と口をついて出てハッとした。
棚に置かれた鏡に自分の顔を映し出す。嫉妬の炎で火照ったのか、上気した頬と眉間のしわで、鬼のように見えて言葉をなくした。
「(私は…)」
あまりにも驚いたので、女郎は家持からの返事が来る前にもう一通手紙を書いた。
天地の神の理なくはこそ 吾が思ふ君に会はず死にせめ
(天地の神の道理がもしないものであったなら、私が恋しく思うあなたに会わずに死ぬでしょう。)
あなたに会えない日々が続けば続くほど、私は醜くなっていくようです。
一分でも一秒でも一瞬でもかまいません。あなたに会いたいと思う私の願いを、神は許してくださるでしょうか。
返事が来るまで落ち着きのない日々をすごした。
朝起きてから鏡をのぞいて自分の顔を確認し、屋敷の入り口まで出て文使いが来ていないかと何時間も待った。
女郎は怖くてたまらなかった。
「(このまま、家持さまは一生いらっしゃらないのかもしれない。)」
泣き出しそうな気持ちで外に立つと、秋の冷たい風が頬や首筋を冷やしていった。
「女郎様」
「あ、」
「どうされました?」
「あなたを待っていたのです。家持さまからの手紙は」
文使いは納得したように笑うと、恭しく手紙を差し出した。
「ありがとう。」
急いで部屋へ戻って手紙を広げる。
いつもどおり歌は入っていなかったけれど、まじめですらっとした字が家持を示す。
あなたが醜くなるなどということはあるわけがない。心配することはありません。
近いうちに私が確かめに行きましょう。
季節が秋めいて、庭に女郎花となでしこが咲きました。花を見るたびにあなたのことが思い起こされます。
夢にあなたは来てくださった。けれど、悲しそうな顔をしていました。
会いに行ったとき、悲しい顔はしないで。あなたには笑っていてほしいのです。
「(誰のせいだと思っていらっしゃるのだろう。)」
最後の言葉に腹が立つけれど、近いうちに来ると告げる文は愛おしい。
近いうちが、明日であるのか三日後なのか、一週間なのか一月なのか、分からないからまた焦がれる日々が続く。
「(もう、少しだって待てないのに…)」
女郎はただひたすら、身を焦がすことしかできなかった。
「目が真っ赤だ。泣いていらっしゃったのですか?悲しい顔はしないでと、言ったのに。」
撫子の苗を右手に持って、門をくぐった家持が眉を下げた。
「私に会えて、うれし泣きならばいいのですけどね。」
「うれし泣きなどであるわけがありません。けれど悲しくて泣くわけでもありません。」
腹が立つのです。となるべく無機質に答えるが、涙で声が震えているのでひどく熱のこもった音になった。
「私にですか?」
「他に誰がいるとおっしゃるのです?近いうちにいらっしゃるというから明日か明後日かと心待ちにしていたのに。貴方の“近いうち”はふた月も経つのですね。」
「そんなに責めないでください。私にだって仕事も付き合いもあります。それに、甘えろと言ったのはあなたですよ?」
まるで自分は悪くない、とでも言いたげな横顔に、女郎は頭に血が昇っていくのを感じた。
家持は、目もとを真っ赤にして泣く女郎のことなど気にしないように、屋敷の下男に撫子を渡した。
「えぇ、そうです。私が甘えろと言いました。でも、甘やかして差し上げるには、来ていただかなければできません!逢いに来ないことをそのままにしておけば、貴方はきっとそのまま私を見捨ててしまわれたでしょう!」
「そんなに声を荒げて…らしくありませんよ。前にも言ったでしょう?怒っていては会いに来た甲斐がない。笑っている恋人に会いたくて来るのですから。…女郎殿の目にいつもとまるところに植えてくれ。」
「畏まりました。」
「家持さま!」
「これはね、女郎殿。私の、亡くなった妾がくれた花なのですよ。“秋になればこの花を見て、私を思い出してください”と言ってね。あなたにもお分けしようと思って持ってきたのです。私の一等好きな花ですよ。」
庭の見えるいつもの部屋に上がり込むと、家持はようやく女郎を見据えた。女郎は家持の一挙手一投足を見逃すまいと視線を外さないが、おもむろに家持が手をのばして触れようとしたので、反射的に身構えてしまった。
「何故怯えるのです?」
「怯えてなどいません。驚いたのです。」
「…いままで来られなかったことは謝ります。でも、あなたのことはいつだって気にかけていました。」
「信じません。」
「本当です。」
「あなたは嘘ばかりだから。」
「どうしたら信じてくれますか?」
俯く女郎の小さな手を取って、下からのぞき込むようにして問う。
困ったような顔に、出会ったころのような幼さを見て、女郎はぽつりと言った。
「明日、私が目を覚ますまで隣にいてください。」
「いいですよ、もちろん。」
「ここにいる間は、私だけを見ていてください。」
静かに頷く家持の顔を見ようと、瞳にたまった涙を落すために瞬いた。瞼を一瞬閉じたそのすきに、家持が唇で腫れぼったくなった瞼に触れたのでまた少し泣いた。
薄く隔たれたすぐ隣。他人の体温はなぜこうも気持ちがいいのかと、少し身動ぎして目を開けた。外の様子は男の身体で伺えないが、空気はほんのり冷たい。
「女郎殿、おはよう。」
まだ寝起きの、かすれた低い声が聞こえてハッとする。
「起きていらっしゃったのですか。」
「うん。」
「本当に、居てくださったのですね。」
女郎の雰囲気がじわじわと泣きそうに湿るので、家持がそっと右手で目隠しをするように女郎の目を覆った。
「目覚めがあなたの泣き顔では、今までの時間が台無しです。…泣きやんで。」
「これは、うれし泣きなのですから、いいのです。」
「いつまでもこうしていたいですね。」
「そうしていられたらどんなに幸せか。今この瞬間で、時が止まってしまったら、どんなに素敵か。私は今、とても幸せです。けれど、行ってしまわれるのでしょう?」
肯定の代わりに、家持は女郎の額に口付けを落とした。
着物を整えて出ていく前に、家持はもう一度だけ女郎を抱きしめて、
「撫子を、大切にしてください。」
と言った。
朝靄の中に家持が消えてしまうまで見送ると、女郎は急いで部屋へ戻って歌を詠んだ。
吾も思ふ人も忘れ多奈和丹 浦吹く風のやむ時なかれ
(私もあなたを思っています。あなたも私を忘れないでください。浦を吹き渡ってくる風のように、止む時もなく。)
家持からは例によって手紙が返ってきたが、内容は歌に応える形ではなく、全く関係のない世間話のようなものだった。
「(どういうおつもりなのでしょう…あの方のお心が、まったく見えなくなってしまった。)」
第七章 鬼
夜が来るたびに、女郎はふつふつと沸きあがる不安に体が震えた。
四日前に出した手紙の返事がこない。
明日も来ないかもしれない。明後日も、その次も、これからずっと、来ないのではないか。そんな事ばかりが思われて、すっかり夜が明けても眠る事ができなかった。
皆人を寝よとの鐘は打つなれど 君をし思へば寝ねかてぬかも
(皆の人々に寝よという鐘は打つけれど、あなたのことを思っていると、私はなかなか寝られないことよ)
感情のままに歌を詠むと、どうしても皮肉めいてしまっていけない。女郎自身分かってはいるけれど、仕方がない。
女郎の性格上熱くなると周りが見えなくなる。
「(どうせあの方は関係のない話でごまかすに決まっている。)」
眠っていない目に、涙がつんとして痛い。
庭で揺れている撫子の花は、もう花を落としてしまっている。
「(冬がまた来る。)」
寒くなったらもう、一人ではいられないだろうと女郎はようやく少し眠った。
満月の夜、秋の温度に冷やされた風が室内をめぐっている。
家持は憶良からもらったにごり酒を飲みながら月を眺めていた。酒で熱を持った体に風が気持ちよく、一人でふっくらと微笑んだ。
「(そういえば…)」
昼間女郎から手紙が届いていたことを思い出した。忙しさを理由に目を通さずに置いていたのだ。
「(あの方も、もう少し素直さというか、可愛らしさのある手紙をくれればいいものを。あんな皮肉たっぷりでは読む気もなくしてしまうというのに。)」
かさかさと乾いた音を立てて手紙を広げて、いつも通りの文面だな、と添えられた歌を見て驚いた。
相思はぬ人を思ふは大寺の 餓鬼の後に額づくがごと
(思ってもくれない人をこちらからだけ思うのは、大寺の餓鬼像のうしろから拝礼するようなものです。)
腰の下のほうから、ぞわりと何か足の多い蟲が這い上がってくるような感覚に肌が粟だった。
「いったい…」
小さく恐ろしい像を一瞬で思い浮かばせる。「餓鬼」などという言葉を歌に使ったことに驚いた。
せっかく気持ちよく酔っていたのもすっかり冷めた。落としてしまった手紙をもう一度拾い上げて歌を読み返す。やはりぞわりとした。
翌朝早く、家持は馬を走らせて笠邸へと急いだ。風が強く、温度もかなり秋めいてきた。
「(女郎殿…、)」
笠邸へ着くと、いつものように門をくぐり、女郎が座る姿の見える庭から入った。
中はがらんとして静かで、落ち葉が足元をかすめてかさかさ泣いた。
花を落とした撫子がさびしそうにしていた。
「おや、家持殿。どうされました。」
「金村殿…そうだ、ちょうどよかった。女郎殿はどこかご存じですか?」
「女郎なら、もうここには戻りません。」
「え?」
家持は切れ長の目を大きく見開いて金村を見た。金村はまるで当たり前だというような顔で言った。
「佐保に居ても仕方ないのですよ。あの子の母が今体を壊していましてね、娘に会いたがっているから帰らせました。」
それに、と続けようとして言葉を詰まらせた。
「それに、なんです。」
「…それに、恋に敗れた女がひとり、佐保で過ごすには寒すぎますので。これで失礼します。」
家持は呼びとめる言葉がない。ただ、懐に入れた最後の手紙だけが重たく、その場に立ちつくした。
「(なんでそんな急に…急でもないのか。私が、会いに行かなかっただけか。)」
女郎と同じように庭を眺めてみる。
葉の落ちた木がなんともさみしい。
「(もう、会えないのか。…返事を、出すべきか、どうするか…。)」
重たい腰をあげて外へ出た。
馬の頬を撫でて跨る。
走り去る前にもう一度屋敷を振り返る。静かすぎて空気が止まっているが、耳はまだ女郎の声を探していた。今にも柔らかい声で「家持さま」と呼ばれるのではないかと期待していた。
雪が降って、積もって止んで、また積もってを繰り返して、天平十三年十二月。
寒さに瞼の上がらない朝だった。
「家持様、手紙が。」
「誰から?」
「笠女郎様からです。」
「何だって?」
文使いから奪うように手紙を受け取り、急いで広げた。優しくしなやかな文字で、そこには確かに女郎の言葉が並んでいた。
こころゆも吾は思はずきまたさらに わが故郷に帰り来むとは
(こころから私は思いもしませんでした。いまさらわが故郷に帰ってくるだろうとは。)
手紙を読んで呆然とした。
この恋は、これで終わってしまうのだろうか。
腕の中で幸せだと泣いた女郎を思い出す。家持は女郎の、表情のころころと変わる様子が好きだった。泣かせたり怒らせてばかりだったけれど。年上なのに少し子どもっぽいところも気に入っていた。
笑うときにできるえくぼ。
冷たい指先。
まっしろな項や、眠たそうな目元。
小さく薄い唇も。
年上ぶって優しく叱りながら甘やかしてくれる恋人が、自分のものではなくなると思うと、家持は心の底から後悔が押し寄せるのを感じた。
「(まだ、もう少し。)」
甘やかして欲しい。まだ間に合って欲しい。
歌を何度も読み返して、女郎の心を読みとろうとする。
まだ女郎も、この恋の終焉を望んではいないはずだ。
家持は急いで筆をとった。
今更に妹に会はめやと思へかも ここだわが胸ほほしからむ
(今となってはあなたに会えないであろうと思うからか、ひどく私の胸が乱れて苦しいことです。)
あなたが許してくださるのなら、私は今すぐにでも駆けつけたいくらいです。
苦しくてたまらない。あなたの居場所も分からない私には、ただこの胸の痛みに耐えるしか術がありません。
まだ逢いたいと思っていると、伝わればいい。家持は文使いに急いでくれと告げて渡した。
文使いが行ってしまうのを見届けると、家持はそっと文箱を取り出した。
中には女郎から届いた手紙が全て丁寧にしまってある。
「餓鬼の後に…」
文字の意味する恐ろしさが先に目に付いて、その奥の心のことは考えなかったが、なんてむなしい歌なのだろうと、家持は今更な気持ちで読み直した。
細く頼りない身体が、みじめな餓鬼像の後ろで額づき泣いている。
そんな想像が容易に出来てしまって、家持は自身が恐ろしくなった。
餓鬼道に落ちた卑しい者に頼む時点で救いなどないのに、その後方で額づく女の気持ちが心に鉛を落とした。
「(これで終わるなんて…。せめて、もう一度。)」
祈るような気持ちで空を見上げた。
二人の恋の行く末を暗示するように、恭仁大宮と名付けられたばかりの新しい都には、雨に近いみぞれが、びしゃびしゃと降り始めた。
終