麻薬のような
なんだ、あいつ。
最初はビジネスの顔で尋ねてきたくせに、
最終的には、
「だからお前は遊ばれるんだよ。」
何言ってんだ、コイツ。
なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ。
一体いつあたしが遊ばれたって言うのよ。
ばっかじゃないの。
遊んでるのはあんたでしょ。
私は吠えだしたいのに、怒りはうまく声になってくれない。
「ちょっと売れ始めたからっていい気になるなよ。」
本当に、何なんだこいつ。
お前の方こそいい気になるな。
何様なんだ。
アンタだって駆け出しの編集者のくせに。
後ろ手で玄関のドアが閉めらたのと同時に、私はさっきまであいつが立っていたところへ
向かってワインのボトルを投げつけた。
ガシャンと激しい音の後、床は赤色に染まって匂いたつようなアルコォルにつつまれる。
気がつくと運動したわけでもないのに息が上がって、左手が小刻みに震えている。
あぁ、禁断症状。
まだ二十五なのに、私はアルコールにまみれているのだ。
医者にはほどほどにと言われているけれど、一度匂いを嗅ごうものなら今と同じく手が震える。
数年前は平気だったのに。
だいたい、アルコォル解禁から五年しかたっていないのに、依存症って何だ。
私は私に呆れてため息をつく。
靴はワインまみれで洗って干さなければはけない。ガラスの破片も散らばってて危険だ。私は今裸足だから。
けれど私は酷く自分を傷つけたい気分になっている。
私はチェストの奥の方にしまいこんでいたマルボロを出して火を付けた。
「(あぁ、三日坊主どころじゃない。)」
禁煙しなきゃと決めたのは昨日だ。
一日も保っていない。
「バカじゃないか。」
玄関にへたり込んで泣きじゃくりながら肺いっぱいに吸い込む。
なんでこんなに他人に振り回されなきゃいけないんだろう。
そんなことを想う。
煙草もやめなきゃいけない。
だからこその禁煙宣言だったのに。
初めて煙草を吸ったのは十八の夏だった。
大好きだった人に振られ、落ち込んだ私をいやしてくれたのは親友の慰めや男友達からの恋人立候補などではなくって、飲み屋の席で、隣に座っていた変わった方言のお兄さんからの少し悪いお誘い。
『なにをそんな落ちこんどるの?ねぇ、気分転換に吸ってみん?』
手渡されたのはマルボロ・ライト。
『煙草?』
『そ。軽いよ。』
私は一本抜いて火をつけた。
『どうやって吸うの』
『腹式呼吸みたいに。』
口に溜めた煙を、すぅっと肺の中へ落とす。
『どう?』
もっと苦いと思っていた。もっとむせると思っていた。
けれど、喉が少しイガイガするだけで、悪い煙は私によくなじんだ。
『うん。なんかすっきりする。』
まるで覚せい剤をヤった女子高生みたいなセリフだと自嘲気味に笑うと、お兄さんはニッコリ笑って、
『まぁ、煙草なんて麻薬みたいなもんじゃけぇね。』
と私から煙草の箱を取りあげて自分でも一本吸った。
吸い姿が妙にすっきりしていて、かっこいいと純粋に想った。
「ねぇ、何やっとん?どうしたん?禁煙するんじゃなかったっけ?泣いとったの?大丈夫?ガラス飛び散っとるじゃん。けがしとらんじゃろうね。」
「質問が多くて答えらんないよ。」
「ごめん。…けがは?」
「ない、よ。」
玄関を開けて入ってきた彼は驚いたように大きな目をさらに大きくした。
けれど私を責めない。心配ごとばかり。
「そんで、何しとん。」
「煙草吸ってる。」
「見りゃぁ分かるよ。何したん?」
「編集の柳沢がむかついたからワイン投げた。」
「ふぅん。柳沢は?」
「帰った。」
「禁煙は?」
「解除。無理。」
「じぇろうね。」
受け答えをしながらワインでびしゃびしゃになった玄関を、彼は掃除用具が入っているロッカーからモップを出して掃除を始める。
靴はどうするかなぁとか、ガラス危なぁとか言いながら。
彼は独り言が癖なのだ。
「ごめんね。」
「ん?」
「ワインと、掃除と、禁煙と、それから…」
それから、私につき合わせていること。
一度引っ込んだ涙がまた足並み揃えて戻ってきた。
溢れる水を瞼はせき止められずに焦っているのか、ピクピクと痙攣する。
彼は座り込んでいる私に目線を合わせ、綿菓子みたいにふわりとした声で言った。
「何、言われたん。アイツ、何言いよった?」
「いい気、になるな、ってさ。」
私の眉間にしわがよる。
「なんじゃ、そら。」
ふふっと彼が笑う。
太陽みたいに笑う。
私は彼の笑顔を見ると、もうなにもかもがどうでもいいかと思える。
何に対して怒っていたのか、何がそんなに腹が立ったのか、何がそんなに悲しかったのか、
一瞬にして忘れることができた。
「いまどきいい気になるなって、不良もやくざ屋さんも使わんよ。」
「そうね。」
「柳沢、ダッサ。」
「うん。」
「かっこ悪っ」
「うん。」
彼はひとしきり笑い、私もつられて笑う。
さっきまでの暗い気持ちは、太陽の笑顔に追い出された。
「禁煙も禁酒も止めようやぁ。」
「なんで?」
私はいつだってこの人に癒される。
「煙草吸ってるとこ好き。」
いつだって。
「酔っぱらってるときしか甘えてくれんし。」
ねぇ、貴方は煙草以上にやっかいだわ。
私がそう言うと、彼は、
「まぁ、恋なんて麻薬みたいなもんじゃけぇね。」
あの時のように呟いた。