春の夜の夢
そよそよと暖かな風が前髪を揺らす、その静かな振動に、余市は沈んでいた意識を浮上させた。
眩しい光の洪水に、二度三度ぱしぱしと瞬きをし、ゆっくりまぶたを開けたその先には、儚い青色がどこまでも続く空と、それを切り取る桜。
首を右へ傾ければ、爽やかな緑色の茎に発色の美しい黄色の菜の花。
そこを飛び回る紋白蝶と紋黄蝶は、さながら暢気を絵に描いたようだった。
ここは一体どこだろう。
上体だけ起きあがり、辺りを見回してみたが同じ風景が、確認できる限りずっと向こうまで続いている。
今まで自分がどこにいて、何をしていたかも思い出せない。
「だんなさま」
華やぐ声の呼び掛けに振り向くと、さ緑色の着ものに身を包んだ美しい女が一人、驚いた様子で立っていた。
「だんなさま、こんなところで何をなさっておいでです」
「小夜」
差しだされた華奢な手をとって余市は立ち上がり、女の顔をまじまじと見た。
「小夜」
「はい、だんなさま」
小夜、というのは余市の女房である。
忘れるはずもない。
二人の出会いは見合いであった。
話を持ってきたのは、何かと世話を焼きたがる父方の伯母で、いい歳になって女房も居ないんじゃ出世も出来やしないよ。と半ば無理やり話をとりつけてしまったのだ。
気乗りしないまま席へ着けば、やってきたのはまだ頬にまるみの残る、七五三の日の妹を思い出すほど幼い少女だった。
聞いてみればこの時、小夜は十一になったばかりだという。
思わずこぼれそうになる大きなため息をなんとか必死に呑みこんで、しかし無愛想に定評のある余市に愛想笑いなど出来るはずもないので、結局仏頂面で黙りこんだ。
会話は、勝手に盛り上がる両親たちと仲人に任せ、余市は俯いたまま動かない小夜をじっと見つめた。
余市が連れてこられたのならば、小夜もまた、連れてこられた、というような顔をしている。
目は大きくないがすっと涼しげで、睫毛が長く、瞬きの度に頬の上の影がちらちら動く。
鼻はこじんまりとして、唇も控えめ。
全体的にこまごまとしているが、小動物的で愛らしい顔立ちだ。
女の美醜にそれほど敏感ではないけれど、小夜はたぶん、充分美しい方だろう。
それじゃあ後は若い二人に任せて。と二組の両親と仲人は退席した。
じっと見つめ続ける余市にしびれを切らすように、充満する沈黙を振り払ったのは小夜だった。
「あの、余市様」
「は、」
「わたくしの顔に、何か付いておりますか?」
「……いや、何も」
「あまりにも熱心に見ておられるものですから、何か失態があったかと」
「は!いや、これはとんだ無礼を。申し訳ない」
大の大人がすんなりと頭を下げたのが面白かったのか、小夜はそこで初めて小さく笑った。
小夜の笑い顔は、余市の胸にすとんと落ちてきて、口は勝手に「結納の日取りを決めたい」など早まったことを言っていた。
「だんなさま、こんなところで一体何を?」
「いや、それが俺にも分からぬのだ。いつも通り、岡っ引きの小平治と一緒に見回りへ出たところまでは覚えておるのだが……」
「まぁ珍しい。お勤めの途中にお昼寝でございますか」
「まさか!この俺だぞ?!」
思い出の中の小夜より、今の小夜はすこし大人びている。
それもそのはずで、あの見合いから話はとんとん進んでめでたく夫婦となり、それからもう三年が経とうとしていた。
二年目の冬には女の子が生まれ、幸(さち)と名付けた。今はおしゃべりやよちよち歩きが始まった可愛い盛りだ。
年若い妻と、妻に似て可愛らしい娘に、何不自由ない暮らしをさせたい。生来の働き者である余市は輪をかけて働き者になり、見回り同心仲間たちからは仕事の鬼などと言われることもあった。
そんな自分が、仕事をさぼって昼寝など、あるわけがない。
「根を詰めすぎていらっしゃるのでは?前にも一度、意識を亡くされたかのように文机でお眠りになったことが」
「あれは、寝ずの番が連日だったからだ」
「今は?」
「今は……どうだったか、忘れた……小夜、お前はこんなところで何を?幸はどうした」
「わたくしは、日本橋の菓子屋へ行ってきた帰りでございます。幸はお義母さまに見ていただいております」
「日本橋……」
「豆大福を買ってまいりました」
小夜は持っていた包みを開けて、どうぞ。といって差し出した。
豆大福。
日本橋にある福富というめでたい名前の菓子処で、羊羹が有名な店だったが、小夜はいつも豆大福を買う。
「お前は本当に豆大福が好きだな」
「え?」
「いつも豆大福だ。みたらしとか、草もちとか、いろいろあるだろうに」
「わたくし、てっきりだんなさまの好物かと」
「ん?」
「以前違うものを買っていったら、『なんだ、豆大福ではないのか』とおっしゃられたので、あぁ、だんなさまは豆大福がお好きなのだと思ったのですけれど」
「そうであったかな?」
「まぁ、だんなさまったら」
余市はむんずと大福をとって、もちりと大きく一口食べた。
豆の硬さと餅の柔らかさが絶妙で、餡子が良い塩梅で、美味い。
めでたい名前も、好きだ。
「うん。言われてみれば確かに、好物だ」
「よかった」
大きな桜の木は、九分咲で身ごろだ。
脇に小川も流れている。
立派な桜の下で、好物を女房と食べる。娘も居れば言うことなしだ。こんな穏やかな日が、この三年で一日とあっただろうか。
仕事にかまけてろくに家にも帰らず、ここ最近見たのは、二人の寝顔ばかりだった気がする。
「今度は、幸も連れてこよう」
「あの子はまだ、花より団子でございましょうね。飛びまわる蝶の方に、興味を持つかもしれません」
小夜がくすくす笑う。
「蝶……そうでした。わたくし、だんなさまにお返しいただきたいものが」
「返す?」
「結納の前日にいただいた、蝶の細工がされた櫛でございます。だんなさま、こっそり持っていかれましたでしょう?」
「俺がお前の櫛を?」
「はい。桜がまだ蕾の頃の、夕暮れでございます」
何かを、忘れている。小川のせせらぎと、大きな桜。
「小夜、日本橋へ行ったのだったな」
「はい。左様でございます」
「帰りにここを通ったということは、この先は八丁堀だな」
「はい」
「ではここは、茅場町か?」
小夜はゆっくり頷いた。
「左様でございます。もうじき、暮れ六つの鐘が鳴る頃かと」
まるで走馬灯のように、余市の頭の中に今までの出来事が駆け巡る。
大きな桜の木。その脇を流れる小川に、一人の女の死体が浮いた。
さ緑色の着ものは乱され、しかし乱暴された後はなかった。
桜の木の下に、豆大福が二三個転がっており、買い物帰りを襲われたようだった。
騒ぎを聞きつけた手下である岡っ引きの小平治が、真っ青な顔で自身番へ駆けこんできて言った。
「余市様!奥方が、小夜様が、……川に浮きやした……っ!!」
何を言われたのか頭が理解するより先に、余市は疾風のように駆けた。
変わり果てた姿を見て、しかし余市の心は凪いでいた。恐ろしいほど静かだった。
下手人に、心当たりがあったのだ。
余市は、小夜の懐からのぞく蝶の櫛をみつけ、そっと自分の懐へしまった。
形見のつもりだった。
「小夜、俺はあいつを斬りに向かう途中だったのだ」
「はい」
「八丁堀から日本橋へ向かうこの場所で、お前があいつに殺されたこの場所で、俺はあいつを待ち伏せていたのだ」
「はい」
下手人は、余市の同僚で、横田周平という男であった。
袖の下を集めることに執念を燃やし、商家を脅したり、力の弱い庶民たちへ当たり散らすような、同心の風上にも置けぬ最低な男で、余市はとにかくこの男が大嫌いだった。
周平もまた、生真面目でどこまでも真っ直ぐな余市のことが大嫌いだった。
周平は思った。
余市の何もかもをめちゃくちゃにしてやりたいと。
標的にされたのが、小夜だった。
「小夜を殺したのは貴様だな、横田周平」
「何を申される平塚殿。奥方が亡くなられた時分、拙者はまだ八丁堀の自宅に。近所の連中に聞いていただければ、」
「御託はよい。調べはついておる。近所の連中に金で口裏合わせを頼んだことも、ゴロツキを雇ってわざと小夜に早く帰らせるように仕向けたこともな」
「……さて、そのような輩共の話と、同心である拙者の言葉、お奉行はどちらを信じるのであろうなぁ」
「ふん。お奉行など関係ない」
「なに?」
「貴様はここで俺が斬る!」
すらりと刀を抜いて、中段に構えた。
自慢ではないが、余市の刀の腕はからきしだ。対して周平は、道場で師範を務めるほどの腕前。
情けなくも、最初から死の覚悟をしていた。ただ、絶対に一太刀でも斬りつけてみせると心に決めていたのだ。
ぽつりぽつりと雨が降り出した。
にやりと気味悪く笑った周平の顔と、曇天に煌めく刀の鈍い光を最後に、余市の意識は再び小夜の居るのどかな風景に戻った。
「ずいぶん、無茶をなさいましたね、だんなさま。こんなところに、来てしまわれるなんて」
「つまりここは、あの世か。俺は死んだのか、小夜」
「当たらずしも遠からず、と言ったところでございます」
「?」
「ほら、聞こえますでしょう?だんなさまを、呼ぶ声が」
日本橋の方向から、確かに無数の声がする。
それは余市の母であったり、妹であったり、小平治であったり。とにかくたくさんの人の声だった。
かすかに、泣きじゃくる幼子の声も聞こえる。
「大変、幸が泣いております」
「あぁ」
「わたくしはもう行けませぬから、どうかだんなさま。あの子をお願いいたします」
「あぁ、……俺が必ず、立派な娘にしてみせる。小夜、」
「はい」
「やはりこの櫛、お前には返せぬ」
「え?」
「櫛を返すというのは、三行半と同じこと。だが俺は、お前と別れるつもりはない」
「だんなさま」
「それに、幸には、お前の思い出が必要だ」
余市は懐から櫛を取り出した。
優しく、小夜の鬢を撫でつけるように梳いてから、再び懐へしまった。
そうして、小夜を引き寄せて強く抱いた。もっと、たくさんこうしておけばよかった。
「小夜、幸せにできずに、すまない」
「いいえ、だんなさま。小夜は日本一の果報者でございます」
目が覚めると、眼前にはシミのある薄暗い天井と、覗き込む男の顔だった。
「!……小平治か、驚かすな」
「旦那ぁ……!」
四十路の男が涙目で鼻をすする。美しいものではないが、自分を想ってのことだと思えば悪い気はしない。
「周平は、横田周平はどうなった。俺は、やったのか」
「袈裟がけにばっさり。まぁ、旦那も真一文字にばっさりだったんですがね。懐にこれ、入ってたから一命をとりとめやした。奥方のおかげでさぁ」
何重にも懐紙で包まれた、蝶の櫛。
衝撃で櫛の歯が三本ほど折れてしまっていた。
「運ばれてすぐ、医者の野郎が一命は取り留めたって言ったのに、旦那三日も眠っていなさるから、俺ぁこのまま逝っちまうかと気が気じゃなかったですぜ」
「あぁ、春の夜の夢を観ていたんだ」