まどろみの部屋にて




ご近所に、先生、と呼ばれているおじいさんがいる。
若いころは高校の美術の先生で、年をとってから美大の先生になって、今は絵画教室の先生をやっているらしい。

「都亜子ちゃん、ちょっと頼まれて」
「はぁい」

うちのおばあちゃんと「先生」は仲良しで、よく煮物やお菓子のおすそ分けをしている。

「あぁ。『たあこちゃん』、いつも悪いね。あがっていく?」
「うん……せんせぇ、鼻の頭に絵の具付いてる」
「おっと、……」

先生の家は変わってる。
玄関をくぐると、右の手前が居間。奥が和室。左の手前がアトリエ。
奥が寝室。真正面の奥が台所。
廊下を左に折れてお風呂とトイレ。
二階に上がって書斎。その隣が、先生曰く、まどろみの部屋。

「ほんと、この部屋の存在する意味がわからない」
「君は来るたびにそう言うね」
「だって先生、まどろみの部屋って言うけれど、こんな部屋でまどろめるの?」

床は畳で壁は洋風のクロスが貼られ、天井には、

「不釣り合いなシャンデリア」
「ははは」
「洋室なの?和室なの?」
「洋和室」
「何それ!」

この家はもともと、この街で一番の変わりものが住んでいた家だった。
小さい頃はよく、絶対に近づいてはいけないと言われていた家だった。

「前の住人が出て行ったときそのままで使っているからねぇ。これはその人の趣味だな。仕方がない」
「とっぱらってしまえばいいのに」
「んー。でも僕も気に入っててね」

以前の住人が突然姿を消して二年後、家は売りに出され、すぐに先生が移り住んできた。
大人の噂話を聞くところによると、以前の住人は、変わった人たちが入る施設にへ行ったらしい。

「気味が悪くない?とっても変な人だったのよ。ここに住んでた人」
「らしいねぇ。でも、まぁ僕とそう変わらないだろう」

僕も相当変だと自負しているよ。
先生は笑って紅茶をいれてくれた。
この家に遊びに来ると、この可笑しなまどろみの部屋でお茶を飲むことにしている。

「全然違うと思うわ。先生は別に変じゃない。芸術的ではあるけれどね」
「ふふ、それは僕が芸術家だと自称しているからそう思ってもらえているんじゃないかしら」
「ここに住んでた人だって、有名な画家だったって聞いたわ。でも絵を描いているようには見えなかった。毎日毎日少し大きな風呂敷包みを持って、電動自転車で街をぐるぐる回っていたの。朝の七時から、夕方六時くらいまで。で、ときどきね、風呂敷包みに話しかけるのよ。気味悪いでしょ?」
「そうだねぇ……実を言うとね、以前の住人は、僕の親友だった」
「うそ」
「本当。……出会ったころは才能あふれる若者でね。彼の作品には輝くものがあった。光栄にもライバルをさせてもらっていたんだよ。だけど僕は、途中で諦めた」
「なぜ?」
「才能がなかったから」
「そんなことないと思うわ」
「いいや、なかなかどうして、絵筆で食べていくことはむりだったんだ。だから、先生になった」

先生は窓の外をみて、当時を思い出すように目を細めた。

「画家を目指していた彼は、当然僕も画家になるもんだと思っていたから、先生になるって言ったら激怒してね。大喧嘩!今思えば、ひどいことを言ってしまったよ。……彼も悩んでいたんだろうなぁ」
「なんて言ったの?」
「はは、思い出すのも恥ずかしいほど、大人げないというか、ただの僻みで八つ当たりみたいなことだよ」

『才能のあるお前に、僕のことなんて分かるもんか!』

そのまま、何も言わずに当時住んでいた街を飛び出して、数年経ってから、ここへ彼に会いに来たのだという。

「彼は結婚が早くてね。子供はいなかったが、奥さんが居たんだ。……でも、会いに行った時、奥さんはいなかった」
「別れてしまったの?」
「いや、……今でも半分以上信じていないんだけど、……絵の中で暮らしたいと言ったから、中へ入れてあげた。と言うんだ」
「え?」

先生は絵を見せてもらった、と言った。
天井にはシャンデリアがあって、壁は洋風のクロスなのに、床は畳。
背景はまさしく、この部屋だった。

「子供はいないはずなのに、絵の中の奥さんは赤ん坊を抱きしめていたよ」
「……」
「とても美しい絵だった。……それから本当に、奥さんの姿は観てない。親類の居ない人だったから、真相はわからない」

私はとても恐ろしくなった。
電動自転車に乗せられた風呂敷包みの荷物は大きくて、額に入った絵のようだと思ったことがある。
あれは、奥さんを描いた絵だったのじゃないだろうか。

「嘘でも本当でも、……狂気じみてるわ」
「だが、力のある画家は、総じてそういうものだ。ゴッホしかり、ピカソしかり」
「変な絵を描く人ばかりね。……先生に才能がなくてよかった」

ひどいなぁ。僕もそれなりに上手だよ?
知ってる。そうでなきゃ、絵画教室の先生なんて出来ない。

「今度、たあこちゃんを描いてあげるよ」
「うん。あ、でもこの部屋はやめて」

先生は嬉しそうに笑った。