やさしいベランダ(14.眩しい)
それは私がまだ十代の時のことだ。
美しいわけではないけれど、活発で若く、何も怖くなかったあの頃、私は少しだけ、咎められる恋をしていた。
大きな手と、低い声。
埋もれるように抱きつくと煙草と香水の匂いがした彼は、夜のような人だった。
それは単に私と彼の関係が、夜にだけ成立するものだったからかもしれない。
私を起こすまいと、そっと身支度をしてそっと出かけていく。
昨日と同じスーツなのに、少しもよれていないことに彼は笑い、眠る私の耳元で「ありがとう。」と小さな小さな声で囁く。
静かに扉を開けて、出て行ったのを確認すると、急いでベランダへ出て、彼がいつも通る場所を見る。
朝もやと鳥のさえずりの中で、彼は一度振り返って私を見つけると、眩しそうに目を細めながら手を振って、唇だけで行ってきますを言った。
手を振り返して朝が終わる。
会うのは一週間に一度だけ。彼のスーツがしゃんとするのも一週間に一度だけ。
「あいつはアイロンをかけてくれないから。」
そう言って苦笑いした時の顔を忘れはしない。
少しの悔しさと、少しの優越感が入り混じっている私を見て、彼が笑った時のことを、私は忘れない。
本当に本当に私は幼く、世界の何も知らなかった。
小さなアパートの小さな部屋が、私の世界で二人のすべてだったのだ。
私は私に正直に生きている。だからこのままでいいんだ。
本気でそう思い込んでいた。
一通のメールが届いた。
内容は短く、もうアパートには来ないという旨が書かれていた。
「どうかしてる。」
もちろんメールを送ったし、電話もした。
けれど帰ってこなかった。
「どうかしてる。」
その日私は一番の友達に夜通し電話をした。
泣きながら話したから何を言っていたのか分からなかっただろうと思ったけれど、友達は「うんうん。」とうなずいてくれた。
「そうかそうか。本当に好きだったんだね。…好きだっただけなのにね。」
私はしゃくりあげて彼を恨んだ。
憎んだ。
罵ってやった。
友達はかなり心配そうな声をしていた。
次の日母が実家から突然訪ねて来た。
「話は全部昭子ちゃんから聞いた。」
何かよからぬことを考えているんじゃないかと本気で疑った友達が呼んだのだった。
母は実家から佃煮だとか煮物だとかを持参し、温かい朝食を作ってくれた。
まだ早い時間だ。
彼が、こっそり出かけていくときとほとんど同じ時間だった。
私は大学へ行く準備をし、久しぶりの行ってきますを言って家を出た。
ベランダが見える場所で振り返ると、すごく眩しくて目が痛かった。
母が手を振っている。
涙で母が見えなかった。
こんな風に、痛みをこらえて彼も私に手を振った。
大きな手が想われた。
優しいは悲しいに少し似ている。
恨み、憎らしく思い、罵ったことを後悔した。
そして本当に、彼のことが好きだと思った。