待ちぼうけ




恋をしていました。それはまるで、陽だまりの中のように暖かく、夕暮れのように切ない恋でした。
私とあの人は大きな楠の下で出会いました。
『あぁ、夕立ですねぇ。酷く濡れてしまった。君も雨宿りですか?』
ずぶぬれになった私は凍えて蹲っていました。
あの人は持っていたタオルを私にかぶせてくれると、上げますよとほほ笑みました。
私は次の日にタオルを届けに出かけました。
とは言ったものの家など分かるはずもなく、ただウロウロするばかり。
途方に暮れていると、後ろの方から声が聞こえました。
『あれ、昨日の子。タオルは上げたのだから返しに来なくても良かったんですよ?』
驚いたように私を見る人は紛れもなくあの人でした。
私はあの人について家へ行きました。
『どうぞ。散らかっていますけど。』
部屋は大層散らかっていました。
足の踏みどころもないほどに原稿用紙が散らばり、私は呆気にとられました。
『実は僕、小説家をしていまして。』
照れたように笑うあの人の顔が何故だか愛おしく思い、私もつい笑ってしまいました。
それからいろんなことを話しました。
掃除が苦手なことや、茄子が食べられないこと。
まるで子供のようなあの人に、私は次第にひかれていきました。
『名前、知りませんでしたねぇ。なんて名前ですか?』
私はただ首を横に振りました。
名前など、とうの昔に忘れてしまったのです。
初めから、付いていなかったようにも思います。
『それじゃぁ好きに呼んでもいいですかね。』
あの人は少しだけ悩んだ風に顎に手をかけ、うぅんと一つ唸ると、
『駒子』
と呼びました。
『川端先生の小説に出てくる女性の名前です。僕はなんだかこの名前が気に入っていまして。』
駒子。
それはとても美しいものを呼ぶための言葉のように思えました。
私は嬉しくなって走り回りたくなりました。けれど走り回ったりしては原稿用紙が散らばってしまいますので、私はぐっとこらえてただ笑いました。
『駒子は、一人ですか?家族は?』
私は生まれた時から一人でした。何も言わずに俯くと、あの人は私の頭をそぅっと撫でて、
『もし君がよければ、一緒に暮らしませんか?僕も一人暮らしだから。実はさびしくてたまらなくってね。』
私は今度こそ嬉しくなって走り回りました。
なるべく原稿用紙を踏まないように、散らばらせないように。
あの人はただ朗らかに笑っていまいした。
それから二年が過ぎました。
毎日がとっても楽しく、私はこれ以上ないぐらいの幸せを感じていました。
一緒に散歩へ行ったり、小説の原稿料などが入ったときは、少し贅沢に鰺の開きなどを食べました。
冬は二人で炬燵にもぐりこみ、夏は飛行機雲を眺めたり、むつみ屋の氷菓子を食べたりしました。
『最近、飛行機雲が多いねぇ。』
あの人は空を見上げてポツリと呟きました。
最近新聞をにぎわす報道が、物騒になってきたのです。
美しい飛行機雲をつくってるのは、おそろしい火花をちらす戦闘機でした。
『戦争、始まるのかな?』
私が不安げにあの人を見つめると、あの人は私の頭を撫でて、
『大丈夫。駒子を置いて行ったりしないよ。』
とほほ笑んでくださいました。
大きな掌が温かく、私も同じように微笑むことができました。
けれども次の日、真っ赤な紙が届きました。
徴兵令がくだったのです。
その時のあの人の顔は、一生忘れることができません。
とてもとても悲しい顔でした。
『駒子、僕は行かなければならなくなった。約束が守れなくてすまない。』
私は首を横に振りました。
『きっと生きて帰ってくるから、駒子もきっと生き伸びておくれ。必ず迎えに行くから。』

私は強くうなずきました。
温かな掌が離れ、あの人は戦場へと旅立って行きました。

それからのことはあまり思い出したくもありませんが、思い出せないと言った方がいいのかもしれません。
火の海、悲鳴、崩れて行く町。
この世のものとは思えない景色が広がり、ただただあの人のことが心配でなりませんでした。
そうして何度恐ろしい夜を迎えたか分かりません。
ただ、目が覚めたらここにいたのです。
あんな大変な戦火の中で、まるで奇跡のようにこの家は残っておりました。
私は夢でも見ているかのような心持で、ただあの人の帰りを待っているのです。
必ず迎えに来てくださるとおっしゃっていましたから。
もう、あれからどのくらいが経つのでしょう。
日々を数えていませんでしたので。
まぁ、そうですか。
六十二年も経ちましたか。
それは長い時間が経ちましたね。
この町の姿は変わってしまったから、あの人は迷っているのかもしれませんね。
こんな老いぼれの話を聞いてくださってどうもありがとうございました。




『駒子、遅くなってすまなかったね。迎えに来たよ。町はずいぶん変わってしまったものだから大層閉口したよ。さぁ、行こう。』

にゃぁん…



******

これって、ファンタジーなのかしらん?