――――――――
白南風の後
――――――――
「行きますよ、壱与さん」
和綴じを読んでいると唐突に言葉が落ちてきて、顔を上げると師匠が立っていた。
「師匠、用事終わったの?」
「終わりましたけど…壱与さん。その“師匠”って言うの止めません?」
何だか、私には荷が重過ぎるんですよね―そう云って困ったように笑う彼に、私は首を傾げて見せる。
「それなら何て呼んだら良いの?」
「そうですねぇ…」
師匠はううんと考え込むように腕を組んだ。其のまま何分経っても動かないから、私はつんっと突いてみる。
すると銅像のようだった師匠がやっと動いた。
「はい?」
「決まるまでは師匠で良いよ。このままじゃ、夜になっちゃうもん」
「そうですねぇ」
野宿は嫌ですもんね―にこりと笑って、師匠は私の手を取る。
「それでは、急ぎましょうか」
壱与さん―師匠が呼んでくれる私の名前は好きだ。師匠と一緒でふんわり優しい気持ちになる。
師匠が呼んでくれるまで私には名前がなくて、答えたいとも思わなかった。
でも師匠が呼んでくれると、私は直ぐに、はいって答えたくなる。
「師匠、此れ仕舞っておいて」
和綴じを渡すと、師匠は一瞬瞬いてから読めましたか?と聞いた。
字は師匠が教えてくれるから、大分読めるようになってきている。
それにこの和綴じは、師匠が写したもので、とっても読みやすかった。
「うん。でも解んないのもあったよ。“土瀝青”とか“冷却器”とか」
「それは此処にはまだありませんからね」
「此処?」
私が首を傾げると、師匠はくすくすと笑って頭を撫でてくれる。
「もう少し先の話です。もう少し」
「ふうん。良く解んないね」
「今はまだ、わからなくて良いんですよ」
師匠はそう云って和綴じを大事そうに背負い箱の中に入れた。この和綴じを、師匠はとても大切にしている。
私も、何だかわくわくするから好きだ。紙も、そこに墨で描かれた文字も。人も。
「あのね」
「はい?」
唐突に声を上げると、師匠が不思議そうに振り返る。逆光で師匠の顔が良く見えない。
「師匠に似てるね」
「修繕師さん、ですか?」
「うん。すごくふんわり暖かい気持ちになったよ」
そうですか―師匠の声は少し笑っているように聴こえた。
不意に師匠に被って木箱を背負った外套の男が、ありがとう―ひらひらと手を振る。
「壱与さん?」
はっとして見れば、其処にいたのは間違いなく師匠だった。
「師匠」
「どうかしましたか?」
「何処か行っちゃうの?」
私の言葉に、師匠が驚いたのが解ったけれど、私自身どうしてそんなことを云ったのか解らなくて慌てて口を押さえる。
「壱」
「な、なんでもないの」
「行きませんよ」
ひょいと抱き上げられて、気づいたら逆光じゃなくなっていて、師匠の顔が良く見えた。
「壱与さんをおいて勝手にいなくなったりしませんよ」
信じられませんか?―師匠の言葉は師匠と同じ。ふんわり暖かくて優しい。
「ううん」
慌てて首を振れば、師匠は楽しそうに笑った。
「誤解も解けたことですし、今日はもうこのまま行きましょうか」
「お、おりるよッ重いもん」
師匠、箱も背負ってるもん―わたわたと暴れたけれど、師匠は見た目に反して力持ちで、
結局私は旅籠につくまで其のまま抱っこして貰った。
打ち水をしていた旅籠の女将さんが、「仲良しで良いわね」と笑って言う。
水の上を走る風が、涼しそうに私の耳元を走っていった。
私が、その和綴じについて知るのは、そう。
師匠の少し異なった場所に住む大切な友人の書いた物語りだと知るのは、もう少しだけ後の話。