『天帝の娘、織姫天川の辺にて機を織りたる。
天帝、これを哀れに思ひて、川西に住みたる牽牛に嫁に遣りたれば、姫機織ることなくなりけり。
天帝怒りて姫を川東に帰したれど、姫余りに泣きたるので、年に一度こそ会う事を許されたる。
文月七日の夕、鵲の架けたる橋を渡りてのみ二人合見ゆ、とぞ伝えられける。』 (ある昔話集より抜粋)
夕暮れた街を歩きながら、尋耶はふと風がさらさらと流れる音に足を止めた。
「待ってぇ」
不意に聞こえた声に顔をあげれば、ひらひらと舞う紙を追い掛ける子供が映る。
足元に落ちたそれを拾いあげると、走り寄って来た子供の顔が輝いた。
「ありがとう。お兄ちゃん」
「いや」
「短冊なの。今日は七夕だから」
紙に視線を落とせば、子供は照れたように笑う。
『泳げるようになりますように 金地 勝』
「叶うといいな」
「うん」
差し出すと子供は力強く頷いて、ありがとうー踵を返した。向こうで大人が彼を呼んでいる。
その後ろ姿に、彼ではない誰かが被った。
『ありがとう』
そう云って笑ったのは…
「あの子供か」
まだ代行屋を始めて間もない頃出会った、小さな依頼人の少女。
WHATEVER BORN UNDER THE STAR
唐突に窓から入って来た物を掴んで小さく眉を顰めた。見慣れたマークの入ったコップ敷。
誰が投げ入れたかより、何故なのかが気になった。
アンティークな扉を引けば空気を揺らすように鈴が唏いた。
「早かったね」
「用件は?」
視線を投げた店の主-空木チヅル-は開口早々の言葉に苦笑してカウンターの奥を示す。
「依頼」
「その人が探偵さん?」
つられて視線を向ければ、幼い声がして小さな少女が椅子にうずもれるように座っていた。
「正確には"探偵のようなもの"、かな」
「代行屋、なんだが」
眉を顰めて見せるが主は気にした様子もなく、湯気のたつカプチーノをカウンターにのせる。
寧ろ気にしたのは少女だった。椅子の背を掴んでこちらに身を乗り出す。
「だいこうやって?」
「代行…本人に代わって物事を行うこと。また、その人」
椅子に腰掛けてカップを取り上げれば主がくすくすと笑った。
「辞書みたいな説明だね、尋耶」
「いい加減呼び付けた理由が知りたい」
片目を眇めて主を見遣れば、少女の手が腕を掴む。
「?」
「私のお願い、聞いて欲しいの」
「コトによる」
すっぱりと答えれば、途端に少女はにこりと笑った。
「私を誘拐して」
「歳は?」
唐突に口を開けば、少女はキョトンと首を傾げる。
「星宮小学校の五年生。10歳だよ」
「誘拐の意味、解ってるのか?」
「連れ去るんでしょ?お金要求したりする」
「空木」
ムッと主を睨むと、主はひらひらと手を振った。
「話はちゃんと聞いた方が良い。これから代行屋やって行くつもりなら、尚更に」
「…駄目?」
少女の瞳が揺れる。泣き出しそうな様子に、小さく溜息を零して腹を括った。
「理由」
「え?」
真っすぐな視線から逃げるようにカップを取り上げる。
「理由は?何で誘拐して欲しい?お前、親は」
「ママのね、本当の事が知りたいの」
「本当の、こと?」
唐突に紡がれた言葉の意味が解らず顔をあげれば、少女の視線はテーブルの上の両手に落とされていた。
「ママにとって、私は何なのかなって」
眉を顰めて主を仰ぐと、主は声を出さずに口を動かす。
『大丈夫』
「?」
主の手が不意に少女の頭を撫でた。
「お母さん、大好きなんだってさ」
「うん。あ、パパもね、大好きだよ」
顔をあげた少女は笑っていて、知らず尋耶は目を細める。
「知りたい事と誘拐がどうして繋がる?」
「心配してくれたら、ママも私のこと好きってことでしょ?だから」
「…別に誘拐でなくても良いと思うんだが」
「え?」
うんざりしたように呟けば、少女が驚いたように身を乗り出した。その拍子にカップが揺れる。
手を出すより早く主の長い指がカップの取っ手を掴んだ。
「家出、も心配の対象になると思うよ」
「…あ…」
漸く気付いたと云うように少女がぱっと頬を押さえる。
「そっか…あ、でも」
「もう夜になってるし」
にこりと笑う主に、今更ながら役回りを理解した。
「…送ってやるから帰れ」
嘆息を零して立ち上がる。手を差し出せば少女は困惑したように見上げた。
「これで解らなかったら次ぎは受ける。それで問題ない筈だ」
素っ気なく云い捨てれば、少女はぱっと顔を輝かせて頷く。
「よろしくね」
ぽそりと耳元で紡がれた言葉に主を睨んだが、彼は気にした様子もなくひらひらと手を振った。
「ごちそう様でした」
「願えば叶うよ」
振り返った少女に、主はありがとうございました-小さく笑う。鈴が軽やかな音を立てた。
「うわ…暗ぁい…」
「家は?」
驚いたようにキョロキョロと廻りを見廻す少女に問いかけると、少女ははっとして右手を示した。
「暗いの怖くないの?」
「別に…」
9時を少し過ぎたところだが、雲が多いのか辺りは暗い。街灯の明かりと家から零れる明かりは僅か。
珍しく行き交う人もいない。
「お兄ちゃんいくつ?」
「17」
あっさりと答えれば、少女はぱしぱしと目を瞬かせた。
「私もおっきくなったら怖くなくなるといいなぁ」
繋ぐ手が伝えるのは人の温もり。一人では得られないものに、少し戸惑いを隠せずにいた。
依頼だとまだ、割り切れる覚悟もなかった。
「昼間は空青くて好きなの。いろんな青が綺麗…あッ」
「?」
不意に少女があげた声に眉を顰めると、ぐいと少女が腕を引いた。
「お兄ちゃんの目、今光で青く見えたよ」
「…光の加減で紺青や藍に近い色に見えることがある、らしい」
「こんじょう?あい?」
「青の種類だ」
受け売りだがー紡いだが少女の耳には届かなかったらしい。
「青にも一杯名前があるの!?」
はしゃいだように尋ねる少女は、好奇心旺盛と云った様子で店にいた時とは少し違って見えた。
他には?ーわくわくと問われたが、そもそもがあの主の受け売りである以上答えを持たない。
「家は?」
「あ、あの角を右に」
話を変えれば、少女は慌てたように廻りを見て先を指差した。途端に角から人が飛び出して来る。
反射的に少女を後ろ手で庇うのとぶつかるのが同時だった。
「あ、ごめんなさいッ」
それは妙齢の女の人。少女が息を飲むのが解った。
「…マ、マ」
零れ落ちた言葉。はっとしたように顔をあげたその人は、少女を認めた。
振り上げられた手。渇いた音。
「あなたッ人の娘をッ」
「お兄ちゃんッ」
頬を張られたと理解したのは暫くしてからだった。
「ママッ」
「心配させてッどこ行ってたのよ、あなたは」
少女を抱きしめるのは母の顔をした人。我知らず零れたのは安堵だろうか。
「心配…した?」
「当たり前でしょうッ」
何云ってるの−視線を合わせて紡がれた言葉に、けれど少女は視線を反らした。
「?」
唐突に掴まれた服の裾に、尋耶は心中で眉を顰める。
「で、でもママの一番は」
「一番?」
「一番はパパなんでしょ?」
俯く少女が泣いているんじゃないかと思った。
『大丈夫』
主の台詞が蘇る。嗚呼、あの時も
「二人とも一番よ。だけど、あなたの云う通り、パパの方が少し上ね」
「…」
あまりにあっさりと云うものだから、尋耶の方が困惑した。
「あ」
『話は最後まで聞いた方が良い』
口をつぐんだのは、何となくだ。まだ彼女は母の顔をしていたから。
「聞いて」
囁くような言葉に少女は躊躇うように顔をあげる。
「まだ、解らないと思うけど。いつかあなたも出会うわ。ママがパパに出会ったように。
その時は、一番にその人を選んで欲しいの。ママやパパを同じ天秤にかける必要はないのよ。間違ってなんかないわ」
「解んない、よ…」
「すぐに解るわ。でも覚えていてね。ママはあなたのこと本当に大好きなの」
さ、帰りましょ−にこりと微笑んで少女の手を取った彼女はふとこちらに顔を向けた。
「送ってくれたことには感謝します」
「あ。ママ、違」
彼女の視線が外れた瞬間に人差し指を唇の前に立てて見せると、少女は躊躇うように口を開閉させる。
『依頼だから』
唇だけで告げれば、少女は瞬時して小さく頷いた。
「何?どうかしたの?」
「ううん。帰ろ、ママ」
さよなら、お兄ちゃん−ひらひらと手を振って、二つの人影が角に消え、たと思ったら少女だけが戻って来る。
「?」
「ありがとう」
お礼−それだけ云って少女はまた角へと消えた。残ったのは掌の青い石。
「空木」
「お疲れ様」
鈴が音を立てるのと同時に言葉を紡げば、主は悪びれた様子もなくくすりと笑った。
「送って来た」
「助かったよ、ありがとう」
依頼料は?-主の問いに答えず尋耶は椅子に腰掛ける。尋耶の請けた依頼は主のもの。
少女を此処から外へ、いるべき場所へ送り届けることだった。けれど。
「翡翠の原石だね、それ」
弄ぶ青い石に目を留めて、主が珍しい-と呟く。
ことりと置かれたカップにはキャラメル色の液体が満ちていた。
「俺は」
「あの娘が自分で渡したんだから、あの娘にとっては尋耶が依頼を果たしたってことだよ」
だからそれは、尋耶のものだ−主はそう云って背を向ける。
口を開けずに、カップを取り上げて口に含めばほんのりと甘さが巡った。
「…空木」
「何かな?」
「依頼料」
これで良い−飲み終えたカップを置けば、振り返った主が目を細める。
「立ち止まるつもり?」
「歩き続ける」
じゃあな−踵を返せば、またのご来店を-主の声が耳朶に届いた。
あの後、一度だけ少女を見かけたことがある。両親と、楽しそうに歩く姿だ。
あれからもう8年。
代行屋が板について、それに合わせるように不可解な輩との関わりが増えたせいか、少女の事を思い出す事はなかった。
あの石は、引き出しの中で眠っている。
少女は、誰かと出会えたのだろうか。唐突に浮かんだ想いは鈴に紛れた。
視界を埋めたのは大きな笹竹。今日一番珍しくないものを、一番珍しい場所で見つけた驚きは相当だった。
「何驚いてるの?」
「まさか此処で七夕を祝うとは思わなかった」
凄い笹竹だー店の中に飾られた笹を見上げれば、店の主はくすくすと笑った。
『狭間』は良く解らない店だった。
見落とすような場所に立地しているわけではないのに、前を通ってすら店の存在に気付かない者も多い。
実際主は、始めて訪れた時に人間のお客は珍しいと至極あっさりと言い放った。
存在感そのものが希薄なのかもしれない。
そもそも客が少ない筈なのに閉店時間というものがない。
いや、あるに違いないのだが、尋耶がいつ訪れようとも開いていて、未だに正確な時間を掴めずにいる。
カフェかと思えば、ビアバーでもあり、和洋中問わず料理や菓子すら出す。
店員といえば主である彼、一人きりで。だから、この店に常識を当てるようなことはないのだけれど。
「書きたい放題書いて行ったよ」
鈴の様に吊された短冊は色鮮やかで、似てはいるが同じ色は一色も見当たらない。
手を触れれば漉き紙なのだと解った。
たまたま目をについた紙を掴めば、水色の紙に白字で蚯蚓が這っている。
「…きは?」
「嗚呼。それは小豆磨ぎだ」
草書だー余程眉を顰めていたのか、主がくくっと楽しそうに笑った。
「なんて書いてある?」
「訳せば…次はもっと早く小豆を磨ぎたい」
「…」
手近な短冊をめくっていけば、やはりそれぞれに不可解な言葉が並ぶ。
「梅雨万歳」
「それは雨童」
「稲荷の供え」
「天狐」
「もっと尋耶で遊び…」
「死神だね、それ」
「尋耶も書く?」
不機嫌に笹から離れれば長い指がカウンターを叩いて、そこに重ねられた色彩豊かな和紙を示す。
1番上は紺に近い青だった。
「何処から仕入れてくる?」
取り上げてくるりと廻す。凹凸があって滑らかとは言い難いが、この方が好ましい。
今は漉紙専門店も少なく、これほどの色彩を揃える所はないに等しいというのに。
「紺屋に知己がいるからね」
「紺屋?」
「そこの常連さんが練習で創った物を譲ってもらった」
ちょっとね―あっさりと云って主は何も書いていない漉紙を摘んだ。赤より桃に近い色の短冊。
「これは朱鷺色」
「朱鷺?」
「そっちは藍色」
「藍…」
目と同じだ−小さく笑って主は紙を重ね直した。
『青好きなの』
少女の声が蘇る。少女はいろいろな青を見つけられたのだろうか。
「筆はそこ」
主の声に顔をあげると、一角にぴったりと収まる硯には、透明の液体が満ちていた。
「蝋?」
「さあ」
肩を竦めた主を睨んで、無意識に筆を掴む。紙につく前に、けれど筆は止まった。
「…」
何を書けば良いのか解らない。小さく溜息を零す。
「尋耶」
顔をあげれば主がカップを磨く手を止めて窓に視線を投げた。
「限りある時ずっと一緒にいることと、永久に一年に一度会えること。どちらかを選べるとしたら」
どちらを選ぶ?ー茜色の光が、徐々に紫紺に変わりゆく。もうすぐ、星明かりが此処にも届くのだ。
文月七日。遥か彼方より伝わる物語。
そして今この時も。何処かで始まり、終わってゆく人生。
「人は、無い物をねだる生き物だ」
少女の母親は限りあるときに少しでも長く一緒にいる幸せを少女に与えたかったのだろう。
気付かないまま、失ってしまわないように。人は有限を生きるものだと知っているから。
「いつだってね」
後悔は先に立たないー肩を竦めて、主は小さく苦笑する。
「…」
唐突に紙を滑った筆は、漆黒の軌跡を残した。
「帰る」
短冊を持って立ち上がれば、主がカウンターに紙袋を乗せる。
「この前の礼」
「どうも」
ひょいと取り上げて、踵を返した。
鈴が凜。と空気を震わせる。笹竹の短冊が風に揺れた。
『今を歩き続ける』
「純白は目標、漆黒は誓い」
主は囁き、そっと店の電気を消す。藍色の短冊は窓の向こうの星を見上げていた。