初めはただ其処にある“もの”に過ぎなかった。

時代が廻り幾つもの時が過ぎて、其れは“世界を創るもの”になった。

其れが“色彩”と呼ばれる様になるのには、更に幾星霜の時を重ねた。

確乎たる名前はなく、ただ其処に存在する“色彩”。

世界を染め続ける其れ、各々に彩る存在の名を与え始めたのはいつだったか。

“色彩”が在り、“色彩”が染める世界が在り。

其の世界が、“色彩”の呼称になった。


“菫”を彩る“菫色”
“空”を染める“空色”
“若葉”を装う“若葉色”


“色彩”が“世界”を創ったのか
“世界”が“色彩”を創ったのか



誰も知らなくとも、“色彩”は確かに此処にある。




今も尚、決して消えることなく――――













暖簾を潜ると、暖かな日差しが世界を包んでいた。
根雪がんーと伸びをして顔を上げる。
―そろそろお暇時期かね?―
「ええ」
―あんたが染めた純白も灰白に変っちまった―
「来年もお待ちしています」
―あんたは忙しくなるね、今からさ―
「忙しいの好きですよ」
笑えば根雪は、変わってるねと嘯いた。
―まあ、またね―
「はい。また」
朔風が雪を巻き上げて、さよならと囁く。
長い冬が、終わろうとしていた。






都奇譚〜玻璃陽炎鳴神水面月袋小路紺屋〜








ぽってりとした店先の提灯に達筆なのかよく解らない字で綴られた漢字は14字。
玻璃陽炎鳴神水面月袋小路紺屋。堅苦しく長々しいこの名前を呼ぶものなどいない。
そもそもコレですら通称であって、客は本当の屋号も知らない。
尤も常連の間では玻璃紺屋で通るのだからその通称さえ使われていないのだけれど。
この紺屋の店主はその通称から玻璃、そう呼ばれていた。


「玻璃さん」
暖簾を潜って店の中に戻ろうとすると明るい声が呼び止めた。
振り返ると東の姫君が顔を火照らせて立っている。
「ああ。佐保さん。今年は早いですね」
「ええ。気が急いてしまって」
よろしくお願いします―ペコリと頭を下げる彼女に微笑を零した。
「はい。解りました。ちょっと待ってくださいね」
店の中に招きいれ座るように促すと、彼女はちょこんと座敷の隅に腰掛ける。
渡された着物は色が掠れ、けれどまだほんのりと色が残っていた。
「白、蘇芳、紅、紫、赤、青、萌黄、朽葉、黄色」
「はい。襲ね色目を考慮してくださって」
内蘇芳、外白は梅。内紫の外紅は紅梅。内青、外紫は早蕨。全て春の色目である。
「今年も同じものにしますか?」
「ええと」
「もしよろしければ」
「はい?」
キョトンとする彼女に、店先に並ぶ幾つかの壷を示して見せる。
「新色が入ったんですよ」
「新色?」
その問いには答えず、にこりと笑った。
「一緒に行きますか?」

―久しぶり―
「ええ。そうですね」
山の斜面から顔を出した幾つもの透明の花に答えて、小さな小瓶を取り出す。
「鶸と葡萄、でしたね」
―そう―
小瓶から零れ落ちた色が、色のない花弁にぶつかった。
「あ」
瞬く間に染み込む色に、彼女は小さく眼を見張る。
「春蘭・・・」
淡黄緑色に紅紫の斑。塩漬けをお茶に入れることもある花。
―ありがとう―
「いいえ。綺麗ですよ」
―精一杯咲くもの―
―次はこっち―
―こっちも―
―こちらにも―
山がざわめいた。
「鴇と黄檗で。そちらは東雲。濃。ええと、浅緑、苗、青磁、鶸、萌木、若葉、若緑」
雪が溶けゆき、色をなくした世界が、透明な山が色鮮やかに染まってゆく。
「亜麻、飴、胡桃、鳶、檜皮、煤竹。今紫、楝、紫苑、二藍。珊瑚、深緋、丹。練、国防、鬱金」
小瓶から零れる色に染まる。東菊に鹿の子草、菫に艾・・・
何処かで春告げ鳥の声がした。

「お気に召しましたか?」
「はい」
春に染まった着物を抱いて、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「春の神に春を贈ってくださるなんて、貴方くらいです」
春を司る女神は、人々に春を贈る存在だから。
「玻璃さんにも、素敵な春が訪れますように」
春を纏った女神は、そう云って優雅に舞う。
都に春が来るのは直ぐ其処のこと。



「玻璃」
呼び声に顔を向ければ、入り口に見知った顔があった。纏うのは橘。表が青、裏が青の色目。
幻鈴堂。そういう屋号の骨董屋をやっている男で、此処にある壷は全て彼から融通したものだ。
「お久しぶりです。幻鈴堂さん」
「壷はどうだ?」
「はい、この通り」
苦笑して店を見回すと、男は近くの壷をコンコンと叩く。
「大丈夫そうだな」
「どうかしたんですか?」
キョトンと首を傾げると、いや、何−男は小さく肩を竦めた。
「そろそろ来るからな」
「ああ。そうですね」
梅雨―呟くと、男は暖簾越しに空を仰ぐ。
「去年は空梅雨でしたね」
「今年は大丈夫だ。雨童もお前も大忙しだな」
「そうですね」
梅雨の後で紺屋を必要としないのは紫陽花くらいですし―苦笑すれば、小さな音が店先に響いた。
「来たな」
「来ましたね」
強くなる雨脚に耳を澄ませるように二人はどちらともなく言葉を切る。

春先に染めた世界は、五月雨に洗われて色褪せてゆく。
色に染まった雨が空に帰ってゆき、鮮やかな虹を創る。
真朱、朱華、萱草、岩緑青、木賊、新橋、江戸紫。
梅雨が終われば、透明になった世界をまた夏に染めるのが彼の仕事だ。

「浅葱、千草、瓶覗、麹塵、青磁」
唐突に男が紡いだ言葉に顔を上げた。
「雨童から注文ですか?」
「ああ」
「其れなら、縹や似紫も」
「お前が染めてやれ」
唐突な男の言葉に困ったように苦笑する。
「雨童が怒りません?」
眷属ですし―小さな風呂敷を差し出せば、男は其れを受け取って視線を動かした。
「紫陽花は梅雨が見頃だろう」
だが、雨のせいでろくに人と会わないからな―踵を返した男の言葉に、思わず目を瞬く。
「染めがてら、話でもしてやってくれ」
「・・・はい。解りました」
「悪いな」
「いいえ。とんでもありません」
くすりと小さく笑えば、男が振り向かずひらひらと手を振った。



「調子はどう?玻璃」
「こんにちは、竜田さん」
穏やかに笑う彼女は夏の暑さも過ぎた夕刻に現れた。
茜色に染まる空が、紫紺に染まる時間が少しずつ早くなっている。
「そろそろですか」
「そうね。都の人たちも楽しみにしているようだし」
「都へ?」
尋ねれば彼女はくすくすと笑う。
「女郎花、百合、竜胆。襲ね色目も変ってきていたわ」
「そうですか」
「そろそろ山をお願いね」
「承りました」
恭しく頭を下げて見せれば、彼女はまたくすくすと笑った。

山間の木々の色は秋霖が連れて行って、すっかり夏の様子を消している。
小瓶を取り上げて、小さく呟けば金風が染色を巻き上げた。
今様、韓紅、銀朱、煉瓦、弁柄、赭、猩々緋。
山が染まる。
柑子、楊梅、櫨、黄橡。琥珀、伽羅、土器、香。
世界が染まる。
訪れるのは実りの季節。

「ありがとう」
西の姫君は山を見上げて呟いた。
ひらりと風が紅蓮の紅葉を一片、彼女の髪に運び飾る。
「いつか、都に人がいなくなっても」
唐突に零れた言葉は独白のようで。
「この山に秋は来るかな」
何も云わずに視線を移せば、何処か寂しげに彼女は山を見つめていた。
「はい。貴方が望む限り、来ますよ」
秋を司る女神は驚いたように振り向いて、少し憂いを含んだように微笑んだ。
「それなら、嬉しい」
「竜田姫」
「玻璃にも、素敵な秋が訪れますように」
涼しさを含んだ風が駆け抜けた。



―ただいま―
唐突に聴こえた声は、別れて間もないと思っていたもの。
「お帰りなさい」
―お願いね―
「はい」
暖簾を潜れば、颪がくるくると染色を巻き上げた。銀鼠の雲から零れるのは白銀の初雪。
掲げた手の上でふわりと融けて、色を失う。
また、皚々たる世界が訪れようとしていた。
眠ろうとする世界の片隅で、微かな動きが波紋を描く。
白に浮かぶ、一転の漆黒。

「都が動くぞ」
「そうですか」
尋ねてきた幻鈴堂が開口一番に告げた言葉に、困惑はしたが驚きはしなかった。
「何を、考えているんでしょうね」
「さあな」
心のうちは誰も解らないからな―紡がれた言葉は真理。
それでも、問わずにはいられないのが業だろうか。
此処に存在していても、此処に在りはしないもの。そうであっても・・・
「驚かないな」
世間には疎いと思ったんだが―キョトンとする男に小さく苦笑した。
「竜田姫が、心配してましたから」
「・・・そうか」
其れきり二人の言葉は途切れる。
しんしんと積もる雪が世界の音を奪ってゆくから。
静寂が世界を遮る。
「此処は、素敵なところだと思います」
「具体的には?」
悪戯っぽく問う視線に、店の中を示してみせる。
並ぶ壷。
其れの一つ一つに、異なる色彩が詰まっている。
世界を創る、かけてはならない色と特別な名前。
「紺屋、ですしね」
赤。青。緑。黄。紫。茶。黒。白。
それだけの名前では本当は事足りない世界なのだと知る人々が暮らしている場所。
「本当は、変らないで欲しいですね。根を失えば、忘れやすくなりますし」
「そうだな」
けれど、干渉する術はないから。
「・・・ただ。忘れないでいて欲しいと心から」


天平12年のある雪の日。
冬だというのに一輪の菊が大内裏の一角にぽつりと置かれていた。
深山嫁菜の一種であるその菊の名は『都忘れ』
けれど凛と咲く丁香紫の花は、忘れられることを拒むかのように確かに其処に在った。


平城京から恭仁京に都を定めたのがこの後。天平12年。12月15日のことである。







鷹狩りに行きて戻りくる夕刻、見知らぬ橋を渡りたり。薄暗くなりて惑ふ。袋小路に当たりて大提灯に見ゆ。灯りに浮べる蝋文字、玻璃陽炎鳴神水面月袋小路紺屋と見ゑたり。路を問はむと思ひて暖簾を潜りたれば、大小なる壷所狭しと並びゐる。奥より出でたるは若き男。「如何様な?」地方訛り無き言葉。「何方なり?」問へば男、笑ひて「逢魔時に惑われたか」灯一つ差し出したり。その提灯、赤酸漿にいと似たり。「戻りて右左と順に進みたれば見慣れし通りに出でたり」礼を云ひて辞す。「足元に用心されたし」ほのりと灯がいづれか闇に融け消へゆ。ほどにして、朱雀門に至れり。帰りて後人に問へど知る者なし。今に至りても再び見ゑること無し。
酸漿灯、暫し邸に在れども小火騒ぎ起こりて後何処にか消へたり。  (平安貴族の日記より抜粋)


在る女主人丁稚に預け置いた着物、翌日戸口に風呂敷に包まれて置かれたり。真新しきと見紛うほど、利休に染められたる。何れなる紺屋に託したりと問へば、丁稚、躊躇いて後、坂を越へ迷ひて訪れた先と答えたり。大提灯を掲げし、袋小路に佇みたる紺屋と述べし。鮮やかたる色に心惹かれ、丁稚に案内させども辿りつく故無し。色薄れゆきてほど探せど、未だこれほど心惹かれし染色他を見ゑず…       (平安期随筆より抜粋)


不意に降り出した雨を避けて、気づくと知らぬところにいた。碁盤の目のように造られた都であるのに、そこは袋小路であって大きな提灯が下がっている店があった。よく解らぬ字で難しい字が並んでいたのだが、店から出て来たのは若そうな男だった。何の店かと問えば、男は小さく笑って「紺屋です」と答えた。訛りのない綺麗な言葉であった。男は鮮やかな藍鼠染めの手拭いを差し出して、「どうかしたのですか?」と問うた。迷ったことを告げると、男は穏やかに「戻って角に出遭いましたら右、左と順に曲がれば見覚えのある通りに出ますよ」といった。雨が上がったようだった。男は「お気をつけて」と云って見送ってくれた。云われたように角を曲がり、気づけば朱雀門も前に立っていた。其の後、手拭いを返そうと其の店を探したのだが、一向に見つからなかった。    (平安京期の都逸話集より抜粋)


文献に於いて数多く見られたこの奇怪なる紺屋を見かけたという噺、京を移って後は幾つか聞こえけれど、江戸が東亰と名を変えて後ぱったりと途絶えているという。





「ええと」
突きつけられた本と其れを突きつける少女を見比べて困ったように笑った。

「玻璃の紺屋さん!?」
「はい。ええと、貴女は…」
暖簾を潜るなり放たれた聞き覚えのない声。そして見覚えのない姿。洋装に身を包んだ少女。
驚いて目を丸くしたまま立ち尽くす少女に近づいてひらひらと手を振れば、途端に少女は呪縛が解けたかのようにぱっと其の手を掴んだ。
「え?あの」
「本当に!?玻璃陽炎鳴神水面月袋小路紺屋の店長さん?」
「店長…というんでしょうか」
困ったように苦笑すると、少女は唐突に鞄から一冊の本を取り出した。

「貴方の事でしょう?」
「ええと」
否定も肯定もせずに曖昧に笑って見せると、まあいいや―少女はあっさりと本を仕舞った。
「紺屋、なのでしょう?」
「はい」
「染めて、くれる?」
おずおずと問う少女に先ほどまでの勢いはない。
「何をお染めいたしましょう?」
穏やかに問えばぱっと少女の顔が輝いた。
「ハンカチでもいい?」
「はい」
渡された布を受け取り、暖簾を潜り店内へ誘えば少女は壷の群れを嬉しそうに見渡す。
「本当に、壷がいっぱいなのね」
「何色がお好みですか?」
「秘色か胆礬ッ」
勢い込んで云う少女に小さく笑った。
「詳しいですね。青系統がお好きなんですか?」
「うん。日本の色って名前も綺麗でしょ」
屈託なく微笑んで少女は着ている洋服を示す。洋風に云えばピンクだろうか。
「浅紅、桃、桜、石竹」
見分けるのはまだ無理なんだけど―照れたように云って少女は視線をあげる。
「日本の色の名前がキッカケだったの」
「はい?」
「民俗学を学びたいって思ったのは」
「みんぞくがく?」
「伝統的な生活文化・伝承文化を研究対象として、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問。というのが一般的なのだけど」
私はそんな堅苦しいイメェジはないの―あっけらかんと言い放って、少女はくすくすと笑った。
「動機は単純。ただね、消えて欲しくなかったの」
「消えて・・・」
「そう。外国語が入ってきて、母国語がおざなりになっている部分もあるし、世代が違えばぜんぜん知らない人もいる。忘れてなくなってしまうなんて寂しいでしょ?」
色の名前も、奇譚も―そう云って少女は不意に鞄を漁ると、ずいっと何かを差し出す。
「あげるわ」
「これは・・・」
それは栞のようだった。素人が漉いたと解るような凸凹した長方形の和紙。
お世辞にも上手いとは云えなかったけれど、思わず言葉を失った。
和紙の色は、空に似た青。それは
「勿忘草ですか」
ぽつりと呟けば、少女は今日の中で一番の笑顔を浮かべた。
「私の誓い。果たせるように見守ってて」
「あ、あの」
気づけば、くるりと踵を返した少女を思わず呼び止めていた。
「染物は」
「次に逢ったとき。また境を越えてくるから」
「え?」
驚いたように問い返せば、少女は顔だけ振り返ってひらひらと手を振る。
「忘れさせないわ。だから、伝統が、過去が生き続ける限り、貴方もまた奇譚に登場してくれてもいいでしょ?」
ね。玻璃陽炎鳴神水面月紺屋さん―あまりにあっさり紡ぐものだから、其れが正しいような気さえしてしまう。だから、だろうか。
「玻璃、で構いませんよ」
「私は透。彩賀透ね」
またね、玻璃さん―少女が姿を消しても、ただ揺れる暖簾を眺めていた。

人間に次の約束をされたのは初めてだと、小さくそんなことを思う。
季節は巡る。季節ごとに訪れる客は変りはしない。けれど有限の時を生きる彼らだけは違う。
流れていく時の中、失われていくものがいくつもあった。
それでも知っているのだ。
色彩を愛でる何ものにも染まらないあの少女は。
過去が今に繋がり、これからへ向かってゆくことを。

「次に逢うまでに、染めておかないといけませんね」
独り言に苦笑して立ち上がる。少女の好きな青色は両手でも足りないほど数がある。
藍、藍鼠、青褐、青鈍、浅葱、浅縹、青黒、褐返し、覗、群青、紺、紺青、金春、空、千草、露草、藍鉄、納戸、花、縹、薄浅葱、山藍摺、瑠璃、茄子紺、紺碧・・・・・・
次の約束が途切れるのと永遠の別れはどちらが先だろうか。
それでも、忘れはしないだろう。この世界を彩る限り。その色彩が消えない限り。

暖簾を潜った先には水縹の空。
店の台帳に挟まれた勿忘草の栞が風に揺れた。