久方の光 射干玉の月
校門に接した壁の上に其の少女は座っていた。
長い漆黒の髪を重力のままに垂らし、同じく漆黒の瞳で昇降口の辺りを直と見つめる。
校門に面した路を行く白猫が、春疾風に眉を顰めながら少女を仰いだが、彼女はそれに気づかぬようで視線を動かしはしなかった。
春の使の囁きも、穏やかな春日影も、少女の気を逸らせはしない。
ただ不意に響いた鐘の音に揺れた校舎に、少女は小さく眼を細めた。
ちらほらと現れる学生の群れは校門を抜けて消えてゆく。
少女は動かない。
誰一人、少女の前で立ち止まる影は無く、誰一人少女に声をかける影は無い。
茜が紫紺へと変わり始めても、少女は其処から動かなかった。
「帆足 潮さん」
言葉が、空気を凛。と揺らした。
儚げな影を連れた少年。少女は視線を動かし、初めて表情を崩した。
―貴方、誰?私を知ってるの?
少女の『聲』はその唇を震わせない
少女の『聲』は世界を揺らさない
けれど
少年は小さく頷く。
「貴方に此れを」
差し出したのは真っ白な封筒。
宛名も何も無い其れに、けれど少女ははっとして身を震わせた。
―風、音……!?
けれど反射的に伸ばした其の手は、封筒をすり抜ける。
「君のあるべき所へ」
君を待つ人が、其処にいる―視線を合わせた少年は、小さく笑う。
少年の言葉に、少女が歪んだ。
棚引く霞のように朧になる輪郭。
少女の全てが融けて後、少年は夜の帳が下りた空を仰ぐ。
途を示すのは月か星か。
明るすぎる太陽は、影を色濃く残すから。
「終わったのか?」
「はい」
不意に現れた青年を振り返り、少年は小さく笑みを零した。
弾きあげた封筒は一瞬のうちに一枚のカードに変わり、真白き鳥の絵が浮ぶ。
「これ、ありがとうございました」
「…」
「尋さん?」
受け取られないカードに、少年はキョトンと青年を見る。
伸ばされた手は、少年の頭を撫でた。
「あの」
「先はお前の知るところじゃない。それでも」
無理して笑うくらいなら泣け―少年の手元からカードを引き抜いて、青年は踵を返す。
青年の頭に浮ぶのは運命を知って尚、穏やかに眠った彼女。
カードに眼を落とし、青年は静かに瞬いた。
「貸しは、珈琲一杯で手を打つ」
返事も聞かずに青年は歩き出す。
慰めるのは役ではないから。
耳朶に届いた微かな嗚咽は聴かなかったことにして。
生きている人間と生きている人間の周波数は同じ
だから互いに瞳に映る
死んでいる人間は周波数が広がるから、死者と生者を映せるけれど
生死を彷徨う人間はどちらでもない
曖昧なまま、何もない世界を漂う
誰の瞳にも、止まらないまま
「どうするのが、一番良かったのか…」
今でもまだ悩んでいるんです―自嘲気味な台詞は、けれど答えを求めてはいない。
それでも青年は小さく鼻を鳴らした。
「それは当事者が決めることだ」
「…はい」
躊躇って紡がれた言葉は、少年が優しすぎるから。
総てを背負うには幼くて、けれど投げ出してしまうには大人びていて
手紙の主はもう此岸にはいない
彼岸は遠くて近い所
此方と彼方の絶対の境を彷徨っていた少女を
此岸へと誘った彼岸の彼女の手紙
異なる周波数は決して互いを捕らえはしない
けれど
それでも
「待つ存在があったんだろう?」
それは彼女ではないけれど。
ただひたすらに、少女が目覚めるのを待つ人がいる。
「はい」
強く、少年は頷いた。
あの涙を見たから、カードを借りてまで今日此処へ来たのだと
「ありがとうございます」
それきり二人は何も云わず。
闇の満ちる世界で、月はまるで愛しいものを包むように柔らかな光を、地上に放っていた。