春の夢を描くように
ふわりふわりと春の風が花の香りを運んでくる。
絵筆をくるりと回して、鬼狩(キカリ)はわずかに目を細めた。
「仄(ホノ)」
「どうかなされました?」
見上げた木の枝に腰かけた娘が、不思議そうに顔を向ける。
娘の着物は赤が基調で、真っ白な肌の彼女に良く似合った。
「微笑んでくれ」
「まぁ。難しいことを申されますね」
そう言いながらも、娘はふわりと微笑んで、鬼狩は紙に筆を走らせる。
仄が何も言わないで、静かに視線を彼方に戻す気配を感じて、鬼狩は僅かに目を細めた。
鬼狩がこの山奥の家に越してきたのは二月前。
調度、雪の解け始める頃だった。
全く絵が描けなくなった鬼狩を心配した友人が、気分を変えろと薦めてくれた。
彼の叔父が住んでいたそうだが、お城に召し抱えられることになり、調度空き家になるところだったらしい。
人里からはかなり離れているが、幸い沢も近く、小さいながら菜園もあるので、細々暮していくには苦労しないところだった。
少しずつ形を見せ始めた絵を眺めて、鬼狩は小さくひとつため息をつく。
視界の端で、ひらひらと赤がはためいていた。
鬼狩は、人と話すことが得意ではない。
人前で絵を描くことも好まない。
そうして人目を避けるように居ついたこの山奥に、彼女はいた。
樹に寄り添う、不思議な娘。
仄は、”人ではないもの”なのだという。
初めて見かけた時も、彼女は同じように木の枝に座っていた。
「どこから来た? そろそろ山を下りなければ、夜になるぞ」
「ご心配なさらずに。私はずっと此処におりますから」
「此処?」
「はい」
「面妖な。木霊か?」
「いいえ。人ではないものなのは確かですが、人が私を何と呼ぶかは、存じません」
それからずっと、娘はそこにいて、決して樹から離れることはない。
仄、という名を与えたのは鬼狩だった。
「名はあるのか?」
「いいえ。名前を呼ぶものなど、おりませんでしたから」
「それなら、”仄”というのはどうだろう?」
「え?」
「私がお前を呼ぶ、名前だ」
いつの間にか、溶けて消えてしまうように儚いモノ。
そう言う意味で、付けた名前だ。
「仄」
「はい、どうしました?」
柔らかな声で振り返った娘は、どうみても生身の人間のようなのに。
「私はお前に触れられるかい?」
「可笑しなことをおっしゃいますね。触れられますよ。視えるのですもの」
「そうか、見えれば触れられるか」
「そうですよ。人ではなくとも、この世界に存在するものですから」
娘の言葉は、春風のように暖かく穏やかで、耳元をさらさらと流れていく。
美しい旋律のようだった。
仄と出会って、言葉を交わして。
ずっと握れなかった筆をまた握りたいと思った。
絵を描きたい。
そう思わせてくれたのは、仄だ。
此処に来て、初めて書いたのは仄の絵だった。
雪と赤い着物。
誰かに描かされる訳でもなく、期限に追われている訳でもない。
ただ、自分が描きたいと思ったものを、ひたすらに描くこと。
それは都に出て、いつのまにか忘れてしまった思いだった。
「仄」
「なんでしょう?」
「君は、どうしてそこにいる?」
何度聞いてもはぐらかされる問いを口にすれば、珍しく困ったように、仄は少し目を細めた。
「人は、”どうして”がお好きですね」
「え?」
「私はずっと此処におります。それは、”どうして”ではなく、そうあることだからです」
「そうあること…」
「はい」
「それなら、仄はやってみたいことはないのかい?」
「ありません。ただ、ここからこうして奥山の景色を眺めていることができるのならば」
「そうか」
少し、淋しさの滲んだ声で鬼狩が呟けば、彼方に視線を向けていた仄が、ふと振り返る。
「あぁ、そうですね。ひとつだけ」
「なんだい?」
「貴方が描く奥山の絵を、私に一枚だけ、いただけませんか?」
「勿論。仄が望むのならば」
仄の瞳を見上げて、鬼狩はひとつ頷いた。
焼畑。
築城。
開拓。
少しずつ森や山は形を変えている。
仄の愛しているこの奥山も、時が経てば経つほど、その姿を移ろわせるだろう。
”どうして”、と全てを把握して、手にしようとする人の手に拠って。
それを退けることもできない鬼狩にできることは、確かに仄の言うようにひとつだけだ。
今の奥山を、絵の中に閉じ込めること。
それが、せめてもの仄に尽くせる礼だろう。
都で高名な絵師の描いた一枚の幻の絵。
普段は、人の姿を描くことを常とする彼の人の目に決して触れることのないその絵は、一本の大きな樹と、動物たちの溢れる、美しい山中の絵であると言われている。