生きている、生きていく
01。夢に溺れた
目を覚ますと、暗い処にいた。
目を覚ますと、深い処にいた。
目を覚ますと、狭い処にいた。
目を覚ますと、自分の部屋の天井を見上げていた。
何度も目を覚ます。
そのたびに、何が夢で何が現実かわからなくなる。
何処にいて、何をして、何を想ったか。
自分とは何なのか。
天井を見上げながら手を上げると、光に透けて命が見えた。
握り締めた手のひらの中に、心があった。
結局の所、確かなものを見つけられない以上、此れが確かだと思うしかない。
此れだ、これだと当たりをつけて、それが積み重なって答えになると思うしかない。
目を閉じると、瞑い処にいた。
目を閉じると、泓い処にいた。
目を閉じると、惼い処にいた。
目を閉じると、夢の中にいた。
現に潜って、夢に溺れて、そうして人間は生きている。
02。世界を壊す
帰り道、前を歩く新藤を見つけた。
「新藤」
「ん?ああ、神木じゃん。遅いね」
「お互い様。何処か行くの?」
新藤の家は、反対方向のはずだ。
「帰るよ。当たり前じゃん。あ、今、一人暮らししてるんだよね」
気づいたようにそう云って、新藤はからからと笑った。
「何で一人暮らし?」
「夜のバイトしてるんだけどさ。親、うるさくって」
「嫌いなんだ?」
「逆。好きだから、離れたいの」
苦笑して、新藤は肩を竦める。
「なんかさあ。神木ない?世界を壊したくなる瞬間、ての?すっごい大事って解ってるのにさ。どうしようもなくなるときがさ」
あたしはあんの―まるで昨日のテレビの話でもするみたいに新藤はそう云ってひらひらと手を振った。
「世界に何もなくなって。あたし一人っきりで、深くて暗い水の底。そういうの望んじゃう時がね」
はははと笑って、新藤はんーと腕を伸ばす。
「人間てさ、そういうもんじゃない?誰も彼も狂ってて。でも自分が狂ってるなーって思う人は少なくて。だけど、狂ってるなーって知ってるほうが、自分を知ってるんだよね」
神木もそっちだと思うけど?―にっと笑う新藤は、けれど答えを待たずに口を開く。
「だからさ、傷つけあって嫌いになる前に離れとくってありでしょ?お互いイライラして、当たるんだったら、離れてて、都合のいいときだけ側にいれば良いじゃん。親、って云うのは、どうあっても切れない存在なんだからさ」
あ。あたしこっち。じゃあね―ひらひらと手を振って、新藤は夜の街へと溶けていった。
安っぽいネオンも、馬鹿みたいなざわめきも、望むものは与えてくれない。
それが解っているから、くるりと踵を返した。
「何処行ってたの?」
「図書館」
「遅くなるなら、連絡して頂戴。ちょっと、きいてるの?心配して云ってるのよ?」
誰の、とは聞かなかった。
その代わり、ああ、こういうときかと思った。
きっとこういうとき、新藤は世界を壊したくなるんだろう。
音を立てて部屋のドアを閉めると、階下から声が追いかけてきた。
けれど、もう世界は壊してしまった。
この世界には、一人きりしかいない。
こうやって世界を拒絶しながら、人間は暮らしている。
03。沈黙が降る
「神木。喧嘩した」
「なに?」
屋上で購買のパンを齧っていたら、唐突にそれを横から野田に奪われた。
「あ、これうま」
「昼ごはんなんだけど」
「幻の肉球パンか。やるな」
もしゃもしゃと残りのパンを口に入れて、野田はぱんと手を合わせる。
「ごっそさん」
「あげた覚えはないけど」
「これやるから、話しきけよ」
どこまでもマイペースに云う野田に渡されたのはいちごミルク。
「なにこれ」
「いちごミルク」
「見れば解るよ」
うんざりと呟くと、やー我孫子にやるつもりだったんだけどさ―野田はかりかりと頬をかいた。
「喧嘩した?」
「そ。つい癖で買ったから、お前にやるよ」
「いらないけど」
「まあ貰っとけ。で、俺の話を聞け」
沈黙が、嫌なんだと―ひらひらと手を振った野田は空を仰いで目を細める。
「は?」
「我孫子は、好きになるなら沈黙が怖くない奴、なんだそうだ」
「…馬鹿じゃないの?」
唐突に上から降ってきた声に顔を上げると、屋上に続く扉の屋根の上に新藤がいた。
「なんだよ、新藤。馬鹿って」
「馬鹿だから馬鹿って云っただけ」
恋してるんだから、沈黙は怖いじゃん―あんまりに新藤があっさりと云うから、思わず野田と顔を見合わせる。
「新藤、悪い。解りやすく云うと?」
「だ、か、ら。沈黙が怖くないなんてもう愛だね、野田」
しらっと告げて、新藤はひょいと身軽に飛び降りた。
「っていって口説きなよね」
「だってさ」
ばんっと野田の肩を叩いた新藤にあわせて、いちごミルクを野田に押し付ける。
踵を返した野田に、新藤と顔を見合わせて笑った。
愛だとか恋だとかそんなのは錯覚だって哲学者は云う。
それでもそんなのに一喜一憂して、人間の営みは動いている。
04。誰にもなれない誰か
「かーみーきー」
思いっきりされたタックルに、窓ぎわの手すりに咽がしまった。
「げほっ」
「え?ちょ、大丈夫か?」
「歯くいしばれよ、三好」
「え?痛いのはやだなぁ」
「誰のせいだ、誰の?」
「え?神木?」
「はぁ?なんで」
「あいっかわらず仲良いね。神木と三好は」
けらけら笑う新藤に、むっとした視線を向ける。
「どこが」
「え?新藤とも仲良いでしょ?」
きょとんとした三好が交互に見るから、思わず新藤と顔を見合わせた。
「あたしと?そう?」
「仲良いと思うけどな。俺と新藤」
三好があんまりにもあっさり云うから、新藤はけらけら笑う。
「三好とね。うん。そうね」
「お前と新藤かよ」
「え?神木と新藤のこと?」
「そうそう。だって神木、あたしの前だとこんなに明け透けにならないじゃん」
「は?」
新藤の言葉にきょとんとすると、なるほど―三好が訳知り顔で頷いた。
「猫かぶりだもんなー神木」
「黙っとけ、お前は」
ばしっと三好の頭を叩く。
「すぐ此れだもん。神木さ、俺にだけ手が出るよね」
「はぁ?」
「まぁ、新藤とかは別にしてもさ。野田にも、濱岡にも、嵯峨野にも、花菱にも。神木手ェでないでしょ」
云われて少しだけ考えた。
まぁ、確かに。
「三好みたいに変な事云わねぇもん」
「え?なにそれ?俺普通でしょ。普通に、神木好きなだけでしょ」
「うざっ」
「ひどっ」
「ぷ」
けらけらと笑い出した新藤に呆気に取られると、廊下の向こうから三好を呼ぶ声がした。
「あ。栄永だ。じゃあな、神木。また遊ぼうぜ」
「もう来るな」
満面の笑みで少女の元にかけていく三好をうんざりしたように見送ると、新藤がちょこんと横に並んだ。
「あの子」
「三好の彼女だよ」
「三好とられて寂しいね」
「…あのね、新藤」
呆れたように呟けば新藤はいつものように、けらけらと笑う。
「三好といる時、神木楽しそうじゃん」
「別に楽しくは」
「だけど、一番友だちだよね」
うっと言葉につまると、新藤は良いね―くるりと窓の外に視線を向けた。
「あたしも中学の時、神木に会いたかったな。そしたら三好みたいになれたかな」
「新藤は新藤でしょ?新藤が三好みたいとか、嫌だけど」
眉を顰めると、驚いたように振り向いた新藤が思い切り背中を叩く。
「痛っ」
「あたし、尾上チャンによばれてるんだった。またね、神木」
涙目で背中を押さえると、ぱたぱたと廊下をかけていく音が遠ざかった。
いろんな人間がいて、いろんなことを考えていて。
解らない事と、解る事が複雑に入り混じっている中で、誰かの事を考えながら、
誰にもなれない自分として、この世界を生きている。
05。夕焼けみたいな優しさに
「神木、暇か?此れ運んどいてくれ」
「はい?」
「美術室な」
どさどさと乗せられた資料に文句を言う暇もなく、尾上先生は頼んだぞ―ひらひらと手を振った。
「きゃっ」
角を曲がった途端聞こえた声に、資料が揺れてバランスを崩した少女が見えた。
「っ」
「危ないの、神木」
「鳥海」
資料を手放す前に、大きな手が資料と少女を支える。
「大丈夫か、嬢ちゃん?」
「あ、ありがとうございます」
「いいって。悪いのは、此れだから」
そう云って振り返った鳥海に、多少腹は立ったが、少女に向かって頭を下げた。
「前見えなくて。ごめん」
「あ、いえ。大丈夫です」
失礼します―慌てて去っていく少女を見送って、鳥海はくるりと振り返る。
「お礼は?神木」
「解ってるよ。助かった。ありがとな」
「解れば良いけど。にしても大量やね。いじめ?」
「尾上先生だけど」
「尾上チャン?仕方ないの。何処よ?」
「何処って美術室に」
「一番上ね。めんど」
そう云いながら、半分以上を取り上げて鳥海はさっさと階段を上っていく。
「鳥海」
「次ぶつかっても助けてやれんよ」
180を余裕で越える身長は段差があると余計に高く見えて、鮮やかなくらいの金髪が窓から入る夕日にきらきら光った。
「鳥海」
「何よ?」
「綺麗だな」
「は?」
「お前の髪。夕陽できらきらしてる」
唐突に階段にしゃがみこんだ鳥海の横まで上がる。
「どうかしたか?」
「お前、普通そういうこと云う?」
「何?」
「何でも。さっさと運べや」
「止まったのは鳥海だけど」
「俺は手伝ってるんけど?」
「はいはい。ありがとな」
とんとんと鳥海を追い越して階段を上がった。
鳥海は外国人の血が混ざっているのだと、いつかそんな話を聞いた。
鎖国をしているわけでもなく、飛行機で外国は何時間の時代に、それが障害になるものかと思う。
綺麗なものは綺麗なのだ。
空の色も、この夕焼けも、同じ色をしている広い世界の中で、人間はいろいろな場所で生きている。
06。あの日の風を覚えてる
「四人組作れ―」
ふと思い出したのは、尾上先生の言葉をぼんやりと聞いていたから。
「四人組を作って、話し合いをしましょう」
小学生の時、国語の授業だった気がする。
37人クラスで2人休み。
「古里君、大橋君、青井君、其処に」
「先生、此処には葉武が入るんです」
「今日はお休みでしょう?」
「それなら、北村のとこでも良いじゃん」
「こっちは相田がはいるんだよ」
「相田君もお休みでしょう?」
入れてもらっても、結局は話などしないのに。
「先生、あの」
「神木君も悪いのよ?ちゃんと入れてって」
悪いとか、悪くないといった問題なのだろうか。
結局の所、誰を心配しているのか。
クラスに溶け込めないことではなく、クラスに溶け込めない誰かがいることに、か。
窓から吹いてきた風が、校庭の銀杏の樹の葉をふわりと目の前に運んできて、その葉を見ながら
ぼんやりと早く授業が終わればいいのにと思っていた。
「き、神木ッ」
ぼんやりしていたら、目の前に尾上先生が立っていた。
くすくすと笑い声のするクラスの中で、ああ、また一人なのかとぼんやりと思う。
「一人でも良いですよ」
「はぁ?神木、話聴いてなかったな」
「四人組、でしょう?このクラス、37人じゃないですか」
「だから、一組は五人で良いって云ったんだよ」
「別に、一人でも」
「何?神木組もうよ」
「違うね、新藤。神木は俺とだよ」
「煩い、野田。神木はこっちや」
「あ、鳥海。卑怯だぞ」
ぐいと腕を引っ張られて、呆気にとられると鳥海が呆れたように肩を竦めた。
「何やの、一人でも良いって」
「四人でしょ?」
「俺も、野田も、新藤も、お前と組むつもりだったんけど?」
ぱちぱちと目を瞬くと、机を引っ張ってきた野田と我孫子、新藤が廻りに座る。
「五人、でいいよね?尾上チャン」
「こら、新藤。先生だろ」
「てことで、尾上チャン、此処決まりの」
「先生だ。鳥海ッ」
ひらひらと手を振った鳥海に、尾上先生は諦めたようにプリントを渡した。
「さて、やるか」
「やる気だね、野田」
「文化祭だろ?楽しみだし」
な、神木―不意に振られてキョトンとすると、我孫子がくすりと笑う。
「神木、ぼけっとしすぎです。ほら、意見出して出して」
「え?」
「何?」
「意見云うの?」
「当たり前です。何、変な神木」
くすくすと笑う我孫子に瞬けば、鳥海の手が頭を叩いた。
「てっ」
「協力せよ。ぼけぼけしとんな」
「神木、こんなのいいじゃん?」
「げっ。新藤センス悪くね?」
「ひっど。何よ野田」
笑う四人につられて、小さく笑う。
窓から吹いてきた風が頬を揺らしたけれど、もうあの日のように俯いて待つことはない。
変わらないことはなく、変わっていく毎日の中で人は何かを失って得て積み上げていく。
07。泣くことを忘れても
「あら、帰ってたの?電気くらいつけてよね」
全身から染み出してくるようなアルコールの臭いが鼻に付く。
おかえりもただいまも、云わなくなって云われなくなって、どれくらい経つだろう。
「何よ、その目。飲んで帰っちゃ行けないっていうの?」
投げつけられた鞄についていた飾りが、瞼を引っ掻いた。
「っ」
思いのほか勢いよく溢れた血が服を濡らす。
玄関をノックする音が部屋に響いた。
「こんばん…久都、それ」
「引っ掛けた」
よどみなく紡いだが、浅賀は呆れたように目を細めて腕を引く。
「おいで。手当てするから」
「別に」
「おいで。血はなかなか落ちないよ」
大人しくサンダルを突っかけると、浅賀は小さく息をついた。
隣の家は診療所で、浅賀はそこの医者だ。
引っ越してきたのは、確か小学校を卒業する頃だった。
「何色に見える?」
「赤だよ」
「ふうん」
此れは決まった問い。初めて出会った時から、怪我をするたびに同じ問いを口にする。
その度に浅賀は、問い返すでもなく赤だと答えた。
「先生の血は?」
「赤だよ」
「ふうん」
「はい、出来た。そんなに深くないから縫わなくても良さそうでよかった」
「ありがと」
「久都、君は違う事を怖れているのかい?」
唐突にかけられた言葉に目を瞬く。
けれどまっすぐに見つめる浅賀に、小さく肩を竦めてみせた。
「解らない。解りたい、と思ってるわけでもない」
「生きていく事に臆病なわけでもないだろう?」
「生きるために生きてるけど」
「それなら良いよ。怪我をしたら遠慮なくおいで」
「おやすみ、先生」
踵を返した所で、不意に浅賀が声を上げる。
「忘れていた。久都、これを渡しに行ったんだ」
もらい物だけど―渡されたものを握り締めて、部屋に戻った。
机の上で、ころりと転がったそれは竹トンボ。
兄がいた頃、彼はそれを作ってくれた。
一緒に飛ばしに行って、樹に引っかかったそれを取りに行って、それきり彼は帰らなかった。
あの頃から、母親は泣きすぎて壊れてしまった。
あの頃から、泣けなくなって笑えなくなった。
今は笑える。それでもまだ、泣き方は思い出せない。
仏壇の前で目を閉じる。あの日の記憶は今も昨日の事のように鮮やかに。
いくつもの思いを抱いて人は年を重ねていく。
薄れていく記憶、忘れていく想い、生きるための術は時に残酷だけれど。
人は死ぬために生きるのではなく、生きるために生きているのだと信じていたいから。
08。君のいない世界の果てで君を想って空を見る
「来たよ」
呟いた独り言。潮風に巻き上げられて宙に弾けた。
大きな桃色の百合の花とスノーフレーク。
冷たい石が並ぶ其処には、不似合いな花だけれど、彼の好きだった花だ。
「戻ってきた」
いつからおかれているのか解らない緑茶のブリックパックの横に、そっと竹トンボを置いて、
その冷たい石を見つめた。
此処にいるのは彼一人。
石の後ろには、赤い字で男の名前が彫られているのに。
その石の下に眠るのはその男の子ども。
「でも、帰ってこない」
男も、女も此処には来ない。
思い出すことを拒み続けている彼らには、きっとこの声は届かない。
「帰りを、待ってるんだ」
波の音が聴こえる。
波の音に混ざって、鳥の声がする。
鳥の声の向こうで、海が啼いている。
「本当に止まれるのは、時が止まったものだけなのよ」
唐突な言葉。
視線の端で、白が揺れた。
「生きているから。どうしたって進むの。そこで歩みを止めるなら、最初から全部捨ててしまえばいいのよ」
真っ白な傘の下で、少女は空を見上げている。
「生きて、生きて、生きて。うんざりするくらい生きて。それから話をしたらいいわ」
「生きて、生きて…」
「いい人生だったって笑えるくらいじゃなきゃ、許されないの。だって託されたんだもの」
命は巡るわ―突然の突風に目を瞑る。風が止んだ時には、少女は其処にはいなかった。
「また来るよ」
石に触れると、太陽の熱のせいか、石はじんわりと暖かい。
波の音を背に、底抜けに晴れ渡る空を見上げて目を細めた。
あの日、世界は終わったような気がしていた。
あの日、小さな世界は崩れたけれど、それでも世界は廻っていて、途切れることなくぐるぐると廻り続けている。
09。子どもでいるには小賢しすぎて
夕焼けに染まる空を烏が一羽で飛んでいた。
黒い羽根を茜に染めて、烏は一羽で飛んでいた。
一人きり教室で、ぼんやりそれを眺めながら、ただ其処にいた。
「あれ?神木?まだ残ってたの?」
「新藤」
「あたしは委員会。あ、烏」
寄ってきた新藤がつられたように窓の外を見る。
「烏、何故鳴くの。烏は山に」
唐突に新藤の口から零れた音は何処か懐かしく、そして何処か寂しげだった。
「かわいい七つの子が在るからよ。かわいいと烏は鳴くんだよ」
「そんな歌詞なんだ」
「そんな歌詞なのね。いつも気になっててね」
窓を開けた新藤の髪が、風に押される。
「かわいいのは子ども?それとも特定の七つ?」
「そりゃ、子どもだろ?」
「あれ?野田じゃん」
振り返った新藤の視線を辿ると、教室の入り口に人影が三つ。
「まぁ、確かに子宝っていうのです」
「だろ?我孫子」
「銀も金も珠も何せむに、ってかの」
「あ、それなんです?鳥海」
「和歌。優れる宝子にしかめやも」
鳥海の言葉に、不意に浮かんだのは昔、彼に聞いた言葉。
「山上憶良」
「神木よくわかったの」
「何々?みんなで残ってんの?」
「あれ、三好じゃん。遅いね」
「聞いてよ、新藤。尾上チャンてばこんな時間までこき使うんだもん」
「あはは。使われてんの」
「三好、優しいもの」
ぴょこんと三好の後ろから顔を出した栄永に、三好は照れたように頬をかいた。
「いやいや。栄永がいたから断れなかっただけですね」
「しーって。我孫子、栄永がいるとこでいうなよ」
はじけた笑い声に、気づいたように廊下を通った尾上が振り向く。
「遅くまで残ってるな。早く帰れよ」
「手伝わせといて、それー?」
「あー。助かったぞ、三好に栄永」
また、明日な―ひらひらと手を振った尾上に、顔を見合わせてふと気づく。
「七人」
「七つの子?」
「かわいい子っていうには大きすぎる気もするな」
「なになに、野田チャン。何の話?」
「烏のかわいい七つの子だよ」
「かわいい七つのって、年のこと?それとも子供の数?」
「子供の数に一票」
「俺に清き一票を」
「何選挙?」
誰とはなく鞄を掴んで、ぞろぞろと教室を後にする。
ふと振り返って窓の外を見れば、さっきまで一羽で飛んでいたはずの烏が七羽。茜色の空を遠ざかっていった。
絶えず変化する世界の色は、きっと一瞬一秒で大きく世界を変えるのだ。
無邪気な子どもでも、胸をはれる大人でもない曖昧な時間の中で、
隣に誰かがいることが、こんな風に当たり前に思えてしまうことがあるように。
10。明日を誓う
「約束ってさ、やっぱ守りたいでしょ?」
「なんだよ、三好」
呆れたような視線を投げると、三好はにっと笑って肩を竦めた。
「卒業だなって話」
「はぁ?」
校舎の端の一番上。音楽室の床に座り込んで、窓の外を仰ぐ。
白い雲が流れていく。
昨日と同じような日。
そして、明日へもそのまま続いていきそうな気がする。
明日からはこの校舎に、通うことがなくなるのに。
「神木と別れんの寂しいなー」
「お前が?まさか」
いつだって三好の周りには人が集まる。
正反対で、けれど、三好のおかげでいろいろ知ったことがあった。
「なに、まさかって」
「お前ならすぐ仲良くなれるだろ」
「仲良くなれても、そこに神木はいないでしょ」
「は?」
「友だちがいないから寂しいんじゃないって。神木がいないからさ」
へらっと笑う三好に何もいえずにいると、他のやつらもそうだって―不意に立ち上がった三好が腕を伸ばす。
「楽しかったな、高校生活」
「ん」
小学校の卒業式も、中学校の卒業式もそんな事は思わなかった。
終わっていくことを追いかけたりはしなかった。
けれど、今は
「ほんと、どうしようもない事ばっか思い出すんだよな」
過ぎてしまった日々を、愛おしく思い返すことなんてないと思っていたのに。
「三好」
「なに?」
「ありがと」
途端に三好は呆気に取られたように目を丸くしてから、額を額に押し当てた。
「おい」
「熱ない?神木が俺にそんな事云うなんて」
「あー、まずい時にきたの」
困惑した声に顔を上げるより早く、すこんと飛んできた何かが頭を直撃する。
「て」
顔を上げれば、卒業証書の入った円柱ケースが足元に転がっていた。
「神木、大丈…いたッ」
三好の言葉に瞬くと、三好の後ろでその円柱ケースを持って仁王立ちする栄永がにっこり笑う。
「浮気現場?」
「え?ちょ」
「よーし、神木。反論があるなら聞いてやるぜ」
けらけらと笑う野田の横で、我孫子が呆れたようにため息をついた。
ふと視線をずらせば、新藤が鳥海に頭を撫でられている。
「新」
「いや、あれは神木のせいじゃなかろ」
「だけど」
新藤の手元をみてああ、と気づく。
転がっている円柱ケースは新藤のもので、ということは此れを投げたのは新藤らしい。
「はい、新藤」
「あ、う。ごめん神木」
立ち上がってケースを差し出せば、新藤は困ったように視線を泳がせてからぺこんと頭を下げた。
「え?なに?わざと投げたの?」
「い、云わないっ」
「それってわざとって云ってるようなもんじゃろ」
「鳥海の云う通りに一票」
「また一票の話?野田好きですね」
「え?良いじゃん?我孫子、云いたくならね?」
「ならないです」
「鳥海なるだろ?」
振り返った野田に、鳥海はふっと不敵に笑う。
「我孫子に一票」
「どっちだよ」
「どっちですよ」
野田と我孫子の突っ込みに思わず口元を緩ませた。
三好も栄永も笑っていて、隣に目をやれば、新藤も笑っている。
「ちょ、笑うなよ」
「諦めや。野田は笑いを取る係よ」
「ちょっと顔が良いからって聞き捨てならない台詞だな、鳥海」
「駄目駄目。その話題振った時点で野田の負けだって。な、神木」
「俺に振るな、三好」
結局みんなで笑って、音楽室の床に散らばって座りこんだ。
「もう卒業ですね。早い」
「あっという間の三年だな」
「時間が止まれば、って思う?」
唐突な三好の言葉に、みんなが振り向いて、みんなの視線を受けた三好が小さく笑った。
「俺はね、思わない。またねーって別れていけたらそれが良いでしょ」
約束は守るものだしね―三好の言葉は、どこかふざけているようにも聴こえたけれど、みんなの顔を見れば、それぞれに何かを、確かに受け取ったようだった。
「またね」
「またな」
「またの」
「またです」
「また」
隣で、新藤が笑った。
「また今度」
みんなの顔を見て、宙を見上げて目を閉じた。
蘇るのは、幾つもの言葉と、記憶。振り払うように、そっと閉じた目を開いた。
「また逢おう」
人間の人生は、出会いと別れで出来ている。
出会いは別れの始まりで、けれど、別れは出会いの前兆でもある。
別れに怯えて、出会うことをあきらめない。
きっと、いつか。出会うことに後悔をしたくない誰かに出会えるから。
昨日が今日に繋がって、今日は明日に繋がっていく。
守りたい約束が、人の未来を支えてくれる。
守れない約束があるかもしれない。けれど、守りたい約束が確かにあるから。
人間はそうやって、人生を紡いでいく。