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  彼岸此岸
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笛の音が消えていく。列をなした白殿中の人たちが次の家へと太鼓や鉦を鳴らしながら遠くなって、周りはすっかり藍色に染まり始めていた。

「よろしければ、お使いになって」

不意に差し出された提灯に、びっくりして私は思わず師匠にしがみつく。

「あら。ごめんなさい。怖がらせちゃった?」

そろりと顔を出せば、人の良さそうな女の人が困ったように立っていた。

「ああ、すみません」
「いえいえ。来てくださってありがとう」

ふふと女の人は笑って、家の方を振り返る。

「こんなに人が来てくれて、あの人も喜んでいるはずだもの」

騒がしいのが好きな人だったから―女の人の言葉に、私は困ってしまって師匠を見上げた。
師匠は気づいて、私の頭を撫でてくれる。

「ええ。でもきっと、貴女のことを心配されてますよ」

女の人は一瞬驚いたように目を丸くして、それからありがとうございます―と云った。

「提灯、明日返しに来ますから」
「はい」

頷いた女の人に、私はまたね―と手を振る。師匠が其れを見て穏やかに笑った。



「壱与さん、ありがとうございました」

女の人が見えなくなってから、師匠が唐突にそう云った。
私は師匠の言葉の意味が判らなくて、キョトンとする。

「ありがとうって?」
「またね、と手を振ってくれたでしょう」

彼女に―師匠はそう云って僅かに提灯を揺らした。
ほわんとした明かりがまるで生き物のようにふわりと動く。

「助かりました」
「私だって師匠のお仕事くらい解ってるもん」

むぅと膨れて見せて、でも私はぎゅっと師匠の手を握った。
本当は、少し声を上げそうになったのだ。
提灯の明かりに照らし出された彼女に。
彼女の周りに群がる小さな影に。

「師匠、あれは」
「餓鬼、が近いでしょうか」
「がき?」
「彼岸に暮らす鬼の一種です。勿論人が付けた名ですけれど」

師匠はそう云って宙を仰いだ。
彼女を囲むように、その生き物は群がっていた。
2尺程度の背丈。細い手足に、異様に膨らんだ腹。頭には角。
それが普通の人には見えないってことはもう分かっていた。
師匠はそれが視えて、その“視えない”世界とこちらの問題を解決するのが仕事だってことも知っている。

「怖かったですか?」
「うん」

私は素直に頷いた。

「あの女の人、何処かを見てた」
「え?」

ぽつりと呟いた言葉に、師匠が振り向く。

「あの人、振り向いた時、何処でもない何処かを見てた。此処にいるのに、いなかった」
「鬼は、怖くなかったですか?」
「どうして?」

師匠の言葉に目を瞬かせると、師匠は途端にぐりぐりと頭を撫でてくれた。

「わっ」
「壱与さんが此処にいることを、私は誰に感謝すればいいんでしょうね」
「わ、私も。師匠のそばに居られて嬉しいよ。それじゃあ駄目?」
「いいえ」

そう云って笑った師匠は凄く嬉しそうで、私も一緒になって頬が緩んでしまう。

「明日、一緒に提灯を帰しに行きましょうね」

師匠の言葉に、私は「そうだっ」と師匠を見上げた。

「“明日会いましょう”は言霊?」

師匠は私の言葉に小さく目を細める。

「言霊は、誰に対しても同じ効果が期待できるわけではありません。私は“明日会いましょう”と約束を口にしましたが、それが必ずしもあの女性を此岸に引き止める鎖になるとは限らないんですよ」

なれば良い、とは思っていますけれど―そう云って師匠は長い指で提灯に触れた。
途端にぼぅと明るくなった提灯に、纏わりついていた影が距離を広げる。


宵闇は、提灯に照らされてますます濃い影を創るのだ。その影の中に、いくつもの視えない姿が騒いでいる。私には、当たり前の世界で。それが怖いとは少しも思わないのだけれど、その一方で、私は時々、無性に人が怖くなる。此処にいない彼らは、此処に視えるのに、此処にいる筈の彼ら(人)は、此処から簡単に目を逸らす。逸らした先に何があるのかを、良く解らないまま。


「師匠の言葉、あの人に届いたかな?」
「さあ。どうでしょうね」
「あら。おかえりなさい」

女将さんの声が届いて、唐突に宿提灯が闇夜を照らす。

「いってきました」
「提灯、借りてらしたんですね」
「ええ。明日、返しに行ってきます」

師匠は提灯をそっと吹き消した。
消えた灯りの中に、私はあの女性の影を視る。

「おやすみなさい」
「あ。おやすみなさい」

私は上がり框で、師匠の分も履物を揃えてから、女将さんに手を振ってぱたぱたと師匠の後を追いかけた。



師匠は酷く優しいけれど、それが何処に属する優しさなのか私は知らない。
師匠は人が好きなのか、それとも視える彼らが好きなのか。
私はそんな事も知らないで、師匠と一緒に旅をしていた。
私が師匠のことを知るのは、結局総てが手遅れになってから。