狂ったように笑っている
狂ったような微笑みは
どこかほっとした空間を探して
余裕じみた世界の中で
狂ったような苦笑と
狂ったように気遣いをみせる
狂ったような誘惑に
漬かり溺れて惚れにごる
狂ったように
狂ったような
狂いはてれも衒いもなく
寒さも感じず堕ちていく
(「忘却の城の日記」巻末破られた頁より抜粋)
湖沼はハインリッヒの法則を唄うか
ぞくりとした寒気を感じてわたしは身を竦ませた。
「おや。寒いんですかい?」
やめときますか?−苦笑を含んだ言葉に、わたしはふるふると首を振った。
何があっても、沼の主に会わなければ。
「決心は固いようですね。じゃ、急ぎやしょう」
提灯を持つ男は足を速め、わたしは転ばないように急いで後を追いかけた。
「ねぇ知ってる?青池には主がいて、願いをかなえてくれるんだって」
他愛のない子どもの噂話。
けれど、それを教えてくれたのは道場の息子だった。
「ぬしってなあに?」
「えー知らないの?主って言うのは、その沼の一番えらい生き物だよ」
「偉い?」
きょとんとしたわたしに、彼はうんと大きく頷く。
「しかも強いんだ」
「強い」
「だから今度、あー君と確かめに行くんだ」
「え?」
「本当にいたら、教えてあげるね」
「何を叶えてもらうの?」
わたしが首を傾げると、彼は悪戯っぽく笑ってわたしの耳元で囁く。
「僕ね、旅に出たいんだ。で、うーんと強くなりたい」
「ふうん」
曖昧に頷いたわたしに、彼はじゃあねと駆けていって。
それが彼を見た最後。
次の日から暫くわたしは風邪を引いてしまって。
外で遊べるようになった時には、もう彼はこの街にはいなかった。
「何処行ったの?」
「遠くよ。うーんと遠く」
「旅?」
わたしが聞くと、その人ー彼の隣に住んでいた女の人は、まぁそんなものねーそう云った。
彼の願いは叶ったのだ。
青池には、主がいる。
主が、願いをかなえてくれる。
「足元、気をつけてくださいよ」
提灯がふらふらと揺れて、男の影がなにか別の生き物のように伸びたり縮んだりしながら、私の前を行く。
「お嬢さん、大丈夫ですか」
振り返った男に頷けば、男は小さく口笛を吹いて笑った。
「こりゃ、失礼。じゃ、さっさと行きましょうか」
『夜中に口笛を吹くと、泥棒が来るよ』
不意に蘇った言葉に、わたしははっとして足を止める。
「おや、どうかしました?」
訝しげな男に慌てて首を振って、わたしは再び早足に歩き始めた。
嫌な気分が、胸を満たしている。
『いいかい。こんな晩はね』
「こんな晩はね、早く寝るに限るよ」
「はぁい」
妹の声がする。
あの子は明るい太陽のようで、父も母も随分甘やかしているのだ。
わたしは冷たくなった手で雑巾を絞った。
廊下の雑巾がけをしなくては。
妹が割った花瓶。随分と水も欠片も散らばってしまった。
あれは父が大切にしていたものだ。
気づいたらわたしが割った事になっていた。
散々怒られて、後片付けをするまでは寝られない。
笑い声が零れてくる明かりを見やって、どうしてかわたしの口からは口笛が零れていた。
「煩いよッさっさと片付けてしまいなッ」
ぴしゃりとした祖母の声がわたしを詰る。
わたしは慌てて雑巾を床に当てた。
音が聞こえたのは、わたしが破片を庭の隅に埋めていた時。
母屋の明かりが消えていて。
唐突に生臭い風が吹いた。
「着きましたぜ、お嬢さん」
男の提灯が暗い闇い沼の端をぼてりと映して、その濁りきった水の中に、わたしは二つの目玉を見た。
手を入れたら、すぐに見えなくなってしまうような、緑青に染まる沼の中であるのに。
「ここで良いんですよね?」
男にはその目玉が見えないようだった。
あんなにも光を放っているのに。
『狂いだよ。狂いだ』
唐突に蘇ったのは、誰の声?
「いたいいたいいたいいたいッ」
嗚呼。なんだろう、この鼻に付く臭いは
「た、助けてッ助けるんだよッ」
嗚呼。なんだろう、この耳に障る叫び声は
「こ、この狂いがッあー」
嗚呼。なんだろう、この腕を伝う生暖かい液体は
胸がむかむかする。
嗚呼。なんて気持ちが悪いんだろう。
動かなくなって、おかしな形で曲がっている。
けれど、口を聞かなくなった分、もう何も言われなくてもいい。
「また掃除しなくちゃ」
床がすっかり汚れてしまっている。
真っ暗な廊下に沢山の水が流れている。
折角雑巾をかけたのに。
家の中は嵐が通り過ぎたみたいだ。
これもわたしが片付けるんだろうか。
父は両手がないから荷物はもてない。
母は身体と足が分かれているから、立てない。
妹は頭が遠くに転がってしまっていた。
先ほどまで煩くわめいていた祖母はわたしの前でぐちゃぐちゃになっている。
わたしの手には賊の残していった短刀が一本。
すっかり水に濡れていた。
人間は半分以上が水で出来ているって本当なんだなとわたしは変な事に感心していた。
でもその水は気持ちが悪くて、人間は綺麗じゃないことを改めて思い知らされる。
あの妹でさえそうなのだから、わたしは一体どうなってしまうんだろう。
わたしは一人で朝ごはんを用意する。
夜は掃除だけで終わってしまった。
父は重かったからやめて、半分になった母を引きずってきて、妹の頭を机に乗せた。
妹の身体は机に寄りかかっている。
祖母は見つからなかったので諦めた。
もしかしたら、昨日掃除してしまったのかもしれない。
「いただきます」
手を合わせてわたしは御飯を口に運んだ。
騒がしくなくなったけれど、臭いだけは消えない。
御飯の香りに混ざっても、その臭いは何だか強くなっている気がした。
隣の人がなんだか頻繁に戸を叩くようになって、わたしはそうだと思いつく。
青池に行こう。そして主様にお願いすればいいんだ。
「こんな所に、一体何があるんです?」
提灯がゆらゆらと水面を映して、及び腰な男の声が良く響く。
わたしはくすりと微笑んだ。
湖沼を覗き込む男が振り向く前に、わたしはその背中を水に向かって思い切り突き飛ばした。
「わッ」
どろりとした水が跳ねて顔に掛かる。
それはあの日の液体に良く似ていた。
人間の身体の中に流れているのは、こんな水なのだ。
金色の目玉が光って、それから男を飲み込んだ。
提灯がずぶりと沈んで、それきりあたりは真っ暗闇。
わたしはくすくすと笑い出した。
『妾、こんな町とはおさらばしたいんだよ』
『しかしな』
『あの子だって。見かけは素直だけど何考えてるのかわかんないし』
『あいつに青池の噂を教えたのはお前か?』
『そうだよ。池に落ちてでもくれれば。あそこは死体もあがらない』
『青池の主に生贄か?そうすれば確かに、願いは叶うな』
わたしは知ってる。
彼は旅に出ないで、この池に沈んでいる事を。
彼の両親がこの町を二人で出て行った事も。
この男が、わたしの家に入った賊だってことも。
わたしが
わたしが、生きていた祖母に止めを刺したことも。
闇の落ちた湖沼で、わたしは笑い続けた。
寒々しい風が水面を揺らしても、わたしは少しも寒いとは思わなかった。
此処は寒い。
訪れるものが必ず口にする言葉がそれだ。
それが気温なのか、空気なのか、雰囲気なのか。
一体何を指しているのか私は知らない。
彼らは決してそれが”何”かを口にはしない。
ただふとした拍子に、ああ此処は寒いなとぽっつり言葉を零すのである。
そして大抵、此処を出て行くときにはその言葉を忘れてしまっているのだ。
そもそも私には彼らに尋ねる術はない。
彼らが寒いと呟きながら、何故此処にやってくるかも、憶測でしか語る事はできないのである。
『忘却の城』
誰がつけたのかも忘れてしまった。
気づけばこの名は私の記憶の一番深い所から続いている。
ただ私が知っているのは、此処を訪れる者は誰しも”記憶”と云うものに何らかの執着を持っているのだ。
記憶に対する執着は、狂いを呼ぶ。
忘れてしまいたいことも
忘れたくないことも
時間を狂わせて、進歩を、成長を止めてしまう。
消してしまいたい記憶も
作られた記憶も
忘れてしまった記憶も
忘れられない記憶も
全てが存在を形作るひとかけらであるが故に、そのひとかけらに執着し続ければ、ひとかけらが存在の全てになってしまう。
帰れなくなる前に、誰もが此処にやってくるのだ。
此処は最後の砦。
存在の淵を歩く者を引き止めるための場所。
『忘却の城』
そう呼ばれるのは、他でもない私自身である。
「何、この本」
今日、此処を訪れたのは一人の人間。
少女は地下で一冊の本を見つけた。
それをここにおいて行ったのが誰かなのか、私は良く覚えていない。
ただ気づけばそれは此処にあって、ここに来る者があるべき場所に帰るのに大いに役立っているのである。
「不思議」
ぱらぱらと頁が捲られる。
其処に同じ筆跡はない。
此処へ来たものが、執着が消える前にこの本に総てを託す。
日記とは日々の出来事を綴るものだが、同時に誰かに読まれるために書くのではなく、自らの心を知るために書くのだと云われる。
心の叫び。
「日常はこんなにも美しく、唯一無二だと知ってなお、どうしてか、そうしてか唐突に、無造作に踏みにじりたくなるんだ」
呟いた少女は真っ白な頁にペンを滑らせた。
「幸せな終わり方なんて、この世には存在しない。そうだと知っても、私は」
少女の瞳から零れた涙が、私を叩く。
それが暖かいのか冷たいのか、私は知らない。
けれど、その涙が、少女があるべき場所に帰って先へ進むための道しるべになる事だけは知っている。
「ああ、此処は寒いわ」
寒さを知ることは、暖かさを知ること
そして、解けた氷は、春をつれてくる
(『忘却の城の日記』後書より抜粋)