知りたかったことの代償は
その時にはまだ知ることはなく
知ってしまったその後で
降りかかってくるものなのです

後悔は先にたたず
悔やみは嘆きの中で
許しを請うように
ただただあふれ出し続けるのです

それでも時間を消すことは
それまでを忘却することに他ならず
全ての否定は何よりも
その存在をも拒むことであり
想いすらも失うことに相違ないのです


                 (「忘却の城の日記」最終章より抜粋)






シュガーポットは笑わない


あの時あんな事を云わなければ、彼女は今も此処にいて、隣で笑っていたのかもしれないと思う事がある。
けれどその思考も堂々巡りを繰り返し、結局は彼女が此処にいる未来などなかったのだと思い知らされるのだ。
それでも後悔せずにはいられない。
どんなに短い時間であっても、彼女との時間を伸ばす事ができたかもしれないことを、私は今も悔やみ続けているのだ。




「駄目だよ。云えない」

俯く彼女に、私は小さく肩を竦めた。

「それなら此れはあげられない」

目の前からお盆を取り上げると、彼女の視線は未練ありげにお盆を追ったが、それでも私と目が合うと慌てて視線を落とした。
お盆に並べられたのは今日の朝食。
かりっかりに焼いたクロワッサンに、バター。コーンスープにサラダ、ハムエッグとミルク。
所狭しと並んだ献立は存在を主張するように湯気と共に食欲をそそる香りを漂わせている。

「食べたいだろ?」
「う」

目の前にお盆を突きつければ、彼女は小さく呻いて視線を逸らした。

「お腹、空いてないはずないからね」

彼女は何も答えなかったが、意思に反してお腹の虫が声を上げる。

「ッ」

はっとして彼女はお腹を押さえたが、皮肉にもそれは私の耳にしっかりと届いていた。

「ほらほら。身体は素直だ」
「い、いらない」
「いらないはずない。丸一日何も食べてないんだから」

私が呆れた声をあげると、彼女はキッと私を睨んだ。

「云えないものは、云えないの」

彼女が身体ごと横を向いた途端、彼女の腕で鎖が音を立てた。



私が彼女を此処―私の研究所に閉じ込めたのは昨日のことだ。
部屋から出ないように鎖をつけて、誰も入ってこられないように鍵をかけて。



「こんなことしたって、駄目だよ」
「駄目かどうかなんて遣ってみなくちゃわからない」
「解るよ」

彼女は憂いを含んだような目で私を見つめて、小さく小さく首を振った。

「駄目なの」
「駄目なものか」

私は苛立たしげに首を振った。
その拍子にお盆が揺れて、皿がかちゃかちゃと音を立てる。

「どうして云えない。私は」
「云えないよ。だって云ったら」

先は紡がれないまま、彼女は唇を噛み締めた。
ぽたりと唇から血が滴る、

「おい、血が」
「云ったらもうお別れなんだよ」

私は慌ててお盆を置いて手を上げたが、文字通り血を吐くような言葉に動きを止めた。

「何処にも、行きたくなんてないよ。私」

此処にいたい―ぽたりと零れ落ちた雫は、研究所の床にしみを造る。

「初めは、帰りたかった。何で私がこんな所に来なくちゃいけないのって思ってた」

私に言葉はない。いや、口を挟むことすら躊躇われた。彼女のそんな言葉は、初めて聴くものだから。

「だけどね。だけど。優しさに触れるたびに、暖かさに触れるたびに、戸惑って。困惑して」

こんな気持ち、私は知らなかったから―彼女の視線は天井を見上げて、私はそんな彼女の横顔を、何も云えずに眺めていた。

「だから、ね」

不意に振り向いた彼女の瞳には、透明の美しい雫が光っていた。

「ずっと此処に、一緒にいたいよ」

その雫が頬を滑り落ちた途端、私は彼女を抱き締めていた。
ずっと、出来ずにいたことだ。
彼女は一瞬驚いたように身を強張らせたが、おずおずと私の背中に手を回した。

「心臓の、音がする」

目を閉じた彼女を安心させるように、腕に力を込める。

「一緒にいる。望む限り。ずっと」

零れ落ちた私の言葉に、苦笑する気配が伝わった。

「いたいね。ずっと」

私の言葉は意思だったのに、彼女の言葉はいつまでも願望だった。



『私は月の国から来たの』
『は?』
『有名でしょ?かぐや姫のお話くらい、猫も杓子も知ってると思うけど』
『かぐや姫、ね。絶世の美女だって聞いてるけど?』
『な、何よ』
『月の国の住人てのは、あんたみたいなのもいるんだな』
『ちょ』
『ま。月の国の犯罪者だしな』
『無礼な。私を愚弄するの!?』
『ま、精々迷惑かけないようにしてくれよ』


『どうしたんだよ。最近塞ぎこんで』
『な、なんでもないよ』
『来たばっかの頃みたいに、月みあげてさ。そろそろ家が恋しい?』
『…る』
『は?』
『迎えが来る』
『え?何云って』
『私、帰らないといけないの』
『は?何でだよ』
『え?い、云えない』
『おい』
『駄目なの。駄目』



私は夢現の中で声を聞いた。頭に直接響くような不思議な声を。

―連れて行かなくて、良いのですか?

それに答えるように彼女の声がする。

「何故?私は」
ー何年、貴女を見ていたとお思いですか。月の国の存亡の為に、貴女はこの国に”愛”を学ばびにいらしたのではないですか。貴女が”愛”を告げれば、彼は月の国の王になれます。共にいることも、叶いますよ。
「私は”愛”を告げなかった。其れだけのこと」
ーいいえ。貴女は怖れたのですね。あの国に行けば、誰でもない誰かになる。この国の感情も、記憶も、全て消えてしまう。この人間の人生を奪う事を、怖れたのですね。
「いいえ。いいえ」
ー誤魔化す必要はありません。貴女は”愛”を学ばれた。自分ではなく、他の誰かの幸せを願えるようになった。喜ばしい事。王もお妃もさぞ、お喜びになる事でしょう。
「そう、かしら」
ーええ。ええ。では、戻りましょう。我らが国へ
「…ええ」



ーさようなら

私がふと気づけば、私は一人きりで研究所の床に座っていた。
視線を動かせば、丸いままの腕輪と鎖が床のしみの傍に転がっている。
その傍に、見覚えのない砂糖壷のようなものが一つ。
ぽつんと寂しげに置かれていた。


ーあの方を預かってくださったお礼です。記憶も忘却もお望みのままに


ぼんやりとした心地の中で最後に聞いた言葉が蘇る。
けれど私は壷を開く事もせず、燃え盛る暖炉の中に投げ入れた。
壷は音を立てることもなく、炎の中にまぎれて消える。
彼女は確かに此処にいた。
私は、其れを忘れる事などできる訳もない。




私を苛む後悔の念も、私が陥る出口のないループも、結局は彼女が此処に確かにいたことの証明に他ならない。
だから私は、今日もあの日を悔やみながら、彼女が隣にいた日を思い返して、この場所で生きている。