汝、何ぞ望む
汝、何ぞ望む

付き従いて行くことか
側を共に歩むことか
凌いで先を駆けることか

汝、何ぞ望む
我望む
汝の願、齎されることを

                  (「忘却の城の日記」巻末の走書きより抜粋)




フィーリングクラウン


彼女が泣いている。
閉じた瞼から頬を伝う涙に、私は柄にもなく戸惑った。
私の前で彼女が泣くことなど考えもしなかったこと。




私が屋敷に帰ると、珍しくお嬢様が私を迎え入れた。

「あら、お帰りなさい」
「お嬢様がお出迎えとは。どうかしましたか?」
「守っていただきたい事がありまして」

苦笑するお嬢様に小さく眉を顰めて見せると、彼の部屋に入らないでくださいねーお嬢様は前触れもなくそう云ってにこりと笑った。

「どうして私が、彼の部屋に入る必要が」

云いかけて私はふと気づく。
私が彼の部屋に入る、そう仮定されているのなら

「どうして、彼の部屋にいるんですか」

言葉が指す人物は、お互いに口に出さずとも解っている。

「凄く疲れているんですよ。朝まではゆっくり寝かせてあげてくださいな」

足音や物音で起きてしまうの、知っているでしょう?ーお嬢様の説明は、私自身も良く知っていることだったので、特に反論の余地もなかった。けれど

「だからと云って、どうして彼の部屋なんです?お嬢様の部屋でも」
「今日、彼の弟さんと揉めましたの」

其れが指す人物を思い浮かべて、小さく眉をあげる。

「あれと、ですか」
「ええ。だからとても気にされてて。彼の家に一人でいるつもりだったようですけど、此処に戻る時無理やりつれて帰ってきたんですよ」

貴方の足止めを条件にー反論を許さない笑顔に、視線を反らして溜息をつく。

「ですから。入らないでくださいね」
「解りました。今夜はちょっかいを出さない事にします」

ひらりと両手を挙げれば、お嬢様は小さく笑った。

「彼の主の方は?」
「お部屋でお休みですわ」
「そうですか」

つと時計を見やって、私は刻限が深夜に指しかかろうとしていることに気づく。

「お嬢様も早くお休みになった方がよろしいですよ」

私の言葉に、誰の帰りを待っていたと思っているの?−お嬢様はちょっと拗ねた様に唇を尖らせた。

「帰りが遅くなった事は、お詫びしますよ」
「あら。謝って欲しいわけではないわよ」

くすりと笑って、お嬢様はまた明日ーソファーから立ち上がる。

「お嬢様」

踵を返した所を呼び止めて、私は芝居がかった様子で一礼して見せた。

「お嬢様のお出迎えは嬉しかったですよ」
「それは光栄ね。ふふ。おやすみなさい」



足音を立てないように廊下を歩いて、私は気づけば彼の部屋の前にいた。
私に与えられている部屋はこちらの客室とは反対にある。
私は小さく息をついて、扉の横の壁に背中を預けた。
此処にいることで何かがあるわけではない。
そんな事は私が一番よく解っていることだ。

『彼の家に一人でいるつもりだったようですけど』

お嬢様の言葉が蘇る。

「怪我を、したんでしょうね」

零した音は静かな廊下に溶けるように消えた。
そうでもなければ、彼女がお嬢様の好意を蹴ってまで彼の家に行くはずがない。
彼女。
扉の向こうにいる筈の人物を思って、私はまた溜息をついた。



私がお嬢様の傍にいる様になってもうかなりの時間が立つ。
お嬢様の母親であるこの家の女主人が、私を認めこの屋敷に引き取ったのが発端だが、丁度兄を欲しがっていたお嬢様にとっても、私の存在は大きかったらしい。
其れまでの暮らしの中で、荒んでいた私に変わるきっかけをくれたのはこの屋敷の人々だった。
私が目的のために手段を選ばずに生きている事を知ってなお。
私は私のためならば嘘をつく事も、仮面を被る事も厭わない。
私は私のためにしか生きられない弱い人間なのだ。
そう思っていた。けれど

『あんたね。あんたはもっと自分を大事にしなさいよ。あんたがそんな風に嘘や仮面で自分を削ったら、あの人達が可哀想じゃない』

突きつけられた言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

『何を云い出すかと思ったら』
『だってあの人達、あんたのこと大好きじゃない。それなのに当のあんたがそんなのじゃ』

馬鹿みたいじゃないーあっけらかんと云い放たれた言葉は私の思考とは大きくかけ離れていて、それでも彼女は少しの揺らぎもなかった。

『人様の主を捕まえて、馬鹿呼ばわりとはいい度胸ですね』
『何云ってるのよ。そうさせてる当の本人が』



彼女は私とは相容れない存在。
存在理由からしても、そういうモノだったはずだ。
それが解っていながら此処に立つのは何故なのか。
私自身良く解らなくなっていた。
お嬢様と彼と彼の主とに接点ができて、彼と近しい存在だった彼女は、結果的に私の傍にいることになった。
其れがこんな感情を生む事など、考えもしなかったのに。

「全く。嫌になりますね」

思えばあの時からだ。
彼女が私の前で泣いたあの日に、総ては決まっていたのかもしれない。



廊下の窓から差し込んできた朝日に小さく瞬いて、私は音の聞こえ始めた扉の傍から身を翻した。
いつもと変わらない。
彼女が起きてきたら、いつものように馬鹿にしてせいぜい彼女を怒らせることにしよう。
彼女が涙を見せない限り、私の心は落ち着きを失う事はないのだから。