ただ迷いながら行き往く世界は
無性に消え往くことだけの思考を
流して移ろいながら また繰り返す虚無
縁にも似た孤独の詩を
途切れること無く 響かせ続けながら


                      (「忘却の城の日記」二章より抜粋)
 




マリオネット・プロフィール


私が初めて彼女を見かけたのは、ある春の午後。
風の穏やかな水曜日の昼間の事だった。
教授の気紛れで、突然休講になった時間を持て余していた私は、
ふらふらと普段は足を踏み入れないサークル棟に迷い込んでしまっていた。
元々人と関わるのが苦手な私は、入学時の大学のサークル勧誘にはほとほと辟易してしまって、
逃げるようにこそこそと帰路についていた。
だから、サークル棟になんて間違っても私が立ち入る筈もなかったのだ。
けれど、その日のサークル棟は珍しく人の気配がなく、
凛とした空気と真っ白な建物が、渡り廊下の向こうで誘うように口を開けていた。
私は何故か極力足音を立てないように、そっとその廊下を歩いていた。
窓から入ってくる暖かな日差しと、真っ白な壁がその不思議な空気を増徴させていたような気がする。
だからだろうか。
彼女の姿を見たとき、私は息が止まるかと思うほど驚いた。
彼女は全開になったドアの向こうで、静かに座っていた。
その横顔にうっすらと微笑を浮かべ、じっと窓の外に視線を向けている。
私は瞬きや心臓の音で、今にも彼女がこちらを向くのではないかと気が気ではなかった。
(勿論サークル棟への立ち入りを禁止されている訳でもなかったから、彼女に気づかれてなんら問題があるわけでもないのだが、
私に気づいた途端に彼女が入部希望者だと勘違いする事を怖れたのである。)
けれど、彼女はその姿勢から動こうとはしなかった。
どの位そうしていただろうか。
美しい彼女の横顔に見とれていた私は、ついついドアに手をかけてしまった。
小さく軋むような音を立てたドアに、私は首を竦めたが、それでも彼女は動かなかった。
大胆になった私は足音を忍ばせて部屋に入り、漸く彼女の秘密に気づいた。
彼女は動かなかったのではなく、動けなかったのだ。
彼女は、巧妙に作られた人形だったのである。
瞬きや上下しない胸を除けば、それは本当に人間のように見えた。
何より彼女の浮かべる微笑が、私の視線を奪って離さなかった。

「あれ。お客さん?」

不意にかけられた言葉に私は弾かれたように背筋を伸ばして恐る恐る振り返る。

「あ。勝手に入って」

謝ろうとすれば、彼は笑って手を振った。

「いいよ、別に。俺もドア開けてったんだし」

さよさん、人目惹くからね―彼は勝手知ったると云った様子で彼女の横にある机に持っていたコンビニの袋をのせた。

「さよ、さん?」

私が困惑したように繰り返せば、彼は嗚呼、彼女の名前ねーへらりと笑って動かない彼女を示した。

「あ。自己紹介がまだだった。俺は、此処の三回生で天宮ね」

君は?―問われて私は、つっかえながら何とか自分の名前を紡ぐ。
それから、此処に入ってきたのは彼女に誘われたからで、
入部希望ではなく、そもそも此処が何のサークルなのかも解っていないのだとぼそぼそと正直に告げた。
天宮は黙って聞いていたが、私の言葉が終わると先刻と同じようにへらりと笑った。

「心配しなくとも、此処は特に勧誘はしてないよ」

私は不可解な顔をしていたのだろう。
彼は椅子を私に勧めて、自分も向かいに腰掛けた。

「さよさんの創作者は、煩いのやミーハーが嫌いなんだよね。本当に入りたいなら、自分の力で探すか作るかしろってタイプだから」

苦笑しながらそう云って、天宮は部屋を見回した。
つられるように視線を動かした私は、作りかけの人形や、壁際に並んだ作品の数々に驚く。
彼女のインパクトが強烈過ぎたせいか、私の視界は今になって漸く部屋の全てを映すようになったようだった。

「これは」
「その人の。まあ、俺とかもう一人のもあるけどね」

向こうはアトリエー入り口とは違うドアに目を向けると、天宮が気づいてそういった。

「人形を作るサークルかなにかで?」

おずおずと私が聞けば、天宮はあたらずとも遠からずーまたへらりと笑った。

「俺や、もう一人は、あの人に近づきたいだけなんだけど」

此処にはさよさんもいるしね―相変わらず不思議な微笑を浮かべたまま、彼女は窓の外を見つめている。
作品を見て回ってもいいかと尋ねると、天宮は一瞬目を瞬かせてから、厭わないならーよく解らない事を云って肩を竦めた。

「あと、俺が飲み食いしてても気にならないなら」

私が頷けばどうぞー彼は彼特有にへらりと笑って作品を示す。

「触っても?」
「作りかけでなければね」

私はふらふらと惹かれるように作品と呼べるかも解らないものを見て回った。
天宮はがさがさとコンビニの袋から物を出して食べていたが、そんなものは少しも気にならなかった。

「なんだ、天宮。お前の客か」

だからこそ私は、唐突に響いたその声に驚いたのだ。
気づけば、とっくに暇だったはずの講義の時間は過ぎていて、私ははっとしたように振り返った。

「えー?俺のっていうか、寧ろ貴方のでしょ。だって招いたのはさよさんだよ」

そうして彼が告げた名前は、何処か古風な響きがした。

「この人が、部屋の主」

そう私に云って、天宮は私の名前を彼に告げる。
私はうろたえたが、彼は気に留めた様子もなく天宮の向かいに腰掛けた。
彼女と、彼女の隣に座る彼は、一枚の絵のようで。
その時彼女の意味ありげな微笑が、僅かに緩んだ気がした。

それ以来、私は暇があれば彼女の元へ通ったが、彼女の微笑は、それ以来何の代わりもなく。
けれど私は今日も彼らの傍で、あきもせずに彼女の横顔を眺めている。