俺の世界の知らない事(01.笑う)




「今着。社長、これ鍵」
「ありがと。直ちゃん、お疲れ様」
「直哉君。おつかれ」
「よー、直哉」

事務所につくなり、ふあと欠伸を零せば、不意に八尋が近づいてくる。

「今日、あの子は?家?」
「は?」
「凛ちゃんだっけ?」
「ああ。リンなら、学校」
「ふうん」

あっさりと答えると、八尋は片目を眇めて事務所の隅まで腕を引いた。

「何だよ」
「やけにあっさりパパ遣ってるみたいじゃん」

あんなに渋ってたのにさ―何があったと言外に尋ねられて、はぁと息を付く。

「そんな訳ないだろ。社長が、あいつ引き取ってる間は家賃も光熱費も持つって言ったからだよ」

だからつれて帰ったんだよ―肩を竦めると、八尋が大仰に眉を顰めた。

「は?」
「学校の手続きも、全部社長がやったし。遣ってるどころか、俺は別に何も遣ってないね」

しらっと紡げば、八尋は一瞬にして興味を失ったらしい。

「あっそ。なーんだ、聞いて損した」
「自分から聞いといてなんだよ」
「べっつに」
「はぁ?」

言いたいことだけ言って、八尋はさっさと社長たちの方へ戻っていく。入れ替わりに遣ってきた先輩社員が、はいっと珈琲を渡してくれた。

「あ、どうも」
「あの子どう?結構しっかりしてるみたいだけど」
「どうもなにも」

どうして誰も彼もアイツのことを気にかけるのか解らない。

「僕も子どもいるからね」

今、中学生と小学校なんだけど―さらりと紡がれた言葉に驚く。

「え?」
「あれ?言ってなかったっけ?」

結婚指輪をしているのは気づいていたけれど、支給された営業用のフェイクだと思っていた。

「宮さん、いくつ?」
「僕、今年で35だよ」
「げ。社長と一緒?」
「そうそう。同級生なんだよね」

高校の―くすくすと笑う先輩社員にかりかりと頬をかく。

「へぇ」
「稔さ、嗚呼見えて結構複雑な過去持っててね」
「稔?」
「あぁ。社長だよ。志波稔って言うんだけどね」
「志波?」

聞き覚えの有る苗字に眉を顰めると、先輩社員は、志波財閥の御曹司―と小さく苦笑した。

「え?志波財閥ってあの」
「車とか、テレビとかのね」
「げっ」

確か毎年高額所得者リストの上の方に入っているはずだ。

「まじ?」
「大本気」

くすりと笑う先輩社員は、けれど、何処か憂いを秘めたような目で八尋と話す社長を見遣った。

「でもね、稔。愛人の子どもでさ」
「は?」
「正妻が別にいたんだよね。母子家庭で育ったんだけど、高校の頃にお母さんなくして、天涯孤独になったの」
「え?でも志波財閥の御曹司って」
「それは後から解ったことでね。それまで稔は、自分の父親が誰で生きてるって事も知らなかったから」

その頃は、大変そうだったよ―その言葉に、ふと気づく。

「もしかして」
「うん。だからあの子。凛ちゃんだっけ?重ねちゃったんじゃないかな」

母親をなくして、天涯孤独。まして、あの子は小学生だし―珈琲に口をつけて、先輩社員は目を細めた。

「だから、直哉君には頑張ってお父さん遣って欲しいなーって思ったんだよね」
「えと」
「うん。最初からは無理だと思うよ。自分の子どもかも解んないんだし。でも」

途中で諦めないでね―それだけ。にこっと笑った先輩社員はひょいと離れていく。冷めた珈琲に口をつけて、小さくため息をついた。

「ため息つくと幸せが逃げるって云ってた」
「わっ」

突然の衝撃に驚いてカップを取り落としそうになる。

「リンッ」
「ん?」

突然に飛びついてきて、首に手を回したままの凛がキョトンと首を傾げた。

「危ないだろうがッ」
「ボーっとしてる直哉が悪い」
「はぁ?!」
「ちゃんとこんにちわとただいまって言った」

ムーと頬を膨らめる凛にため息をつく。

「あのなぁ」
「あら、凛ちゃん。いらっしゃい。学校楽しかった?」
「うん。楽しかった」

社長の言葉に嬉しそうに答えた凛に、漸く気づく。
部屋の鍵は渡してある。わざわざ事務所に来る必要はないのだ。

「リン」
「ん?」
「その、なんだ・・・おかえり」
「ただいまッ」

にっこりと笑った凛に、こういうのも悪くないか、と思ったのは、多分夏の暑さのせいだ。