歳の市



箸を買い忘れたことに気づいたのは暮れも押し迫る12月27日のことだった。
明日には注連縄を飾らなければいけない。今年もあと少しだ。
融が買いに出かけたのは、締切りを終えたばかりで一番時間にゆとりがあったからだ。
神楽を見てから、融は暫く家族以外の誰にも会わず、家に篭りきりで机に向かっていた。
丁度今まで書いてきた作品が年明けに本になることが決まり、校正の必要もあったのだ。
けれど、誰にも会いたくないという気持ちも何処かにあったのは確かで。
追われるように仕事を続けたら、随分と直したいところも見つかって、結局一昨日までかかってしまったのだ。
漸く納得して担当に手渡すと、何だか気分がすっきりとしていた。
元々両親は外国に出かけているし、航兄は大学の研究が大詰めを迎えていて、智兄は来年の為の商談にかかり切りだ。
あまつさえ使用人達には松の内まで休暇を与えてしまったので、他には誰もいなかったのである。
ふらふらと街へ出ると、師走独特の空気が流れていた。
鈴が絶えず震え続けている。それが融にとっての師走の雰囲気だった。
妙な緊張感と慌しさ、それに浮ついた気持ちが交差して、それでも何処か物々しい。
そんな気分になるのは、どうやら人だけでもないらしい。
普段は鳴りを潜めている異形のモノたちが、どこが慌しく逢魔ヶ時の街をかけて行く。
歳の市にも、人に混ざって沢山の異形のものが店を連ね、買い物に興じていた。
極まれに視える者もいて、それが妖の店と気づかぬまま正月道具を買う人間もいれば、人の店に群がる妖もいる。
どこか浮き足立った雰囲気の中で、融はのんびりと歳の市に並ぶ店々を覗いて歩いた。
注連縄に、門松。野菜に果物。
出店とも言うべき連なりを歩いていると、何処か祭のような気がして胸が躍る。
数日すればなくなってしまうその店は、ともすれば夢のようだ。
人と異形の波の中で、不意に道が開けた。
最初は見間違えかと思ったのだ。
彼が立っている所だけ、随分と空気が違った。
人と異形の波が随分と浮世じみて見える中で、浮世のものなのに、彼は逆に浮世ではないように錯覚させる。

「輔?」
「何だ、用でもあったのか?」

振り向いた彼は、訝しげに目を細めた。
久しぶりに会った輔は相変わらずの和服で、白袴に紺絣という出で立ちだった。
人外のような美貌は相変わらず健在で、融は小さく笑う。

「いや。市に箸を買いに来てさ」

お前は何?−ひょいと手元を覗き込めば、輔が持っていたのは何やら石のような欠片だった。

「何だ、それ?」
「鏃だ」
「はぁ?」
「破魔矢の鏃」
「ああ」

ぽんと融は納得したように手を打った。
毎年初詣にいくと、神社で干支の絵馬の付いた弓を売っている。
けれど

「あれは危ないから鏃は付けないんだろう?」
「それは形式的な破魔矢だ。年明けは彼岸と此岸が近づく。参拝者が増えることを考えれば在ってこまる事はない」

素っ気無く云った輔に、店の主がにやりと笑った。

「これが噂の書き物の先生ですかい?」
「へ?噂?」
「先生などと云うほど、売れているのかは知らないがな」

ぎょっとする融に、事も無く輔は言ってのけ、初老の主に一瞥をくれる。

「どの程度噂になっているのか知らないが、広められるのは本位ではない」
「ええ、そりゃあもう。心得てますよ」
「は?何云って?」

物書きとして見れば、名が知れることは不本意ではない。
意味が分からず目を白黒させる融に、初老の主はにこりと頷いた。

「我らの存在を後世まで残してくれるありがたい人ですからねえ」
「後世って…輔ッ」

初老を指してぱくぱくと口を開閉させる融に、輔は小さく息を零す。

「なんだ。理解していなかったのか」
「わ、分かる訳ないだろッ見た目まんま人じゃないか」
「おや。それは嬉しいお言葉だ。私の変装は先生ほどの人にも通用しなさる」

くすくすと楽しげに初老は笑った。

「変装って」
「其のあたりにしておけ。互いに師走は忙しいだろう」
「そうでございますね。お引止めしちゃ悪うございました」

では来年もよろしくおねがいしますよう−初老はへらりと笑って人ごみに姿を消した。
さっさと歩を進める輔に気づいて、ぽかんとしていた融は我に返って後を追う。

「輔、あれは」
「狢」
「へ?あれが?」

思わず後ろを振り返った融は、けれど初老の姿を見つけることは出来なかった。
暮れ迫る街は、輔と歩くだけでさっきまでと違うように見えてくるから不思議だ。
暫く歳の市を歩いて、十字路に出る。融は右方に一瞥をくれて立ち止まった。右は狭間神社、左は邸だ。

「輔」
「?」
「お互い良い年を迎えられるといいな」

手をあげて別れようとすれば、待て―不意に輔が声を上げる。
何かが宙を舞った。投げられたものを融がうまく掴むと、輔はさっさと歩き出す。
だから、眉を顰めて手の中を覗き込んだ融は気づかなかった。
輔が形容しがたい表情を浮かべていたことを。

「良い年を」
「桃?」

それは干し桃の包みで、融は驚いたように目を瞬いた。
桃は、厄災を祓うものとして有名だ。小さく首を傾げて、けれど融は干し桃を袂にしまった。
輔の姿は何時の間にか遠い。その背が薄ぐれた街に溶けていくのを見送って、融は視線を戻した。
歳の市に、ほんのりと明かりが灯り始める。其れを後ろに、融は家に向かった。
何だか来年は、騒がしい年になりそうだ。そう考えて、融は小さく肩を竦める。
風が、忙しそうに耳元を駆けていった。