神楽


夕闇が足音を早めていた。融は小さく瞬く。隣に立つ輔はただ前を見つめていた。


融は、小さい頃から他人には見えないものが見えた。
魑魅魍魎。妖。物の怪。そんな風に呼ばれる闇の中で生きる夜の住人。
人によく似た容姿を取ることができても、明らかに人とは違うモノたち。
同じ世界で生きている以上、共存には仲介者が必要なのだ、と。
そういった輔の言葉が、融にとってはただ其処にいるだけのものだった彼らの姿を変えた。
見えるだけ。それだけでどんな意味があるのかと思っていた。
それを輔があっさりとひっくり返したのだ。

『認知することは、価値のあることだろう』
『は?』
『存在の証明は何よりも意味があることだ』

見えていても、ありのままに生きている輔が羨ましくて、其れからは時間が許す限り輔の側にいた。
最初はただ、知りたかっただけだった。彼らのことを、輔のことを。
けれど今は、何時の間にかそれが当たり前な日常に摩り替わっていて。
自分を慕うように姿を見せる妖の少女(白亜)(妖狐なのだと輔は云っていた)が数日姿を見せないだけで、不安になるくらいに、彼らは生活の一部になっていた。


「輔」
「...」
「暇」

ムゥと頬を膨らませれば、呆れたような輔の視線が刺さる。

「勝手についてきたのはお前だろう」
「だってさ、物書きだし。お前の近くが一番資料が集まりやすいからさ」
「そう思うなら少しは黙っていられないのか?」

肩を竦めた輔が次の瞬間はっとして視線を戻し、融の耳にも音が届いた。

「何の音だ?」

炎が揺らめく。鐘が唏いている。
目を細める融の横で、輔は腕を組んで闇を見つめた。

「虫送り」
「はぁ?」
「作物などの害虫を除くために、松明を灯して鏡鼓を鳴らしながら村外れまで稲虫の作り物を送り出す行事。地方によって多少違うが、実盛送りと云うものもある」
「ほう」

彼方にある影が動いて行く。
炎が、鐘が、遠ざかっていくのが解った。

「何を張り詰めてたんだ?」
「...重なると厄介だったからな」

ふうと輔が零した吐息に、融はぱちぱちと瞬く。

「重なる?」

思えば小説の題材を探しに輔の処へ行ってみれば、まさに出掛けようとしていた彼と鉢合わせて。
結局は勝手についてきたので、融自身は輔が此処に来た理由を知らない。

「この時期は移動が多いことくらいわかっているだろう」

不機嫌そうな台詞に答えず曖昧に笑えば、輔は呆れたようにため息を落とした。

「神々は出雲に向かう。百鬼夜行は近づく、祭は数を増やす。盂蘭盆の後で境が揺れている分、此岸と彼岸、此処とあちらとが触れすぎる」
「...白亜がこないのも其れが理由か?」

梅雨が明けた頃は頻繁に訪れていた彼女は、此処最近姿を見せない。百物語の後に数度会ったきりだ。
静けさに落ちた言葉はまるで波紋を描くように空気を震わせて、融自身驚くほど軌跡を残す。

「妖狐は違う。尤も」

祭祀の役回りではあるが―ぽつりと零れた言葉の意味を理解するより早く、不意に眼前に灯りが浮いた。

「今晩和。門守」
「おわッ!?」

人でないことは直ぐに解った。闇に浮く椛衣の女房装束。それを纏う艶かな女の手には鬼灯提灯があった。
驚く融に、女はくすりと笑みを零す。

「貴方が。思い人ね」
「え?」
「狐よ、狐」
「えと」

困ったように見遣れば、輔は小さく肩を竦めた。

「何か用か。女郎蜘蛛」
「あら、嫌だわ。大丈夫、手を出したりはしないから」

狐と喧嘩じゃ、分が悪いわ―薄く笑って、女はすぅと手をあげる。

「もうすぐ始まるから来たのよ。門守、連れて行ってあげなさいな」
「?」

言葉の意味が解らず眉を顰めた融が二人を交互に見交わせば、珍しく輔が嫌そうな表情を浮かべた。

「輔?」
「境、己が領域は軽々と越えて良いものとは思えない」
「あら、お堅いこと」

くすりと笑った彼女が不意に袖を振ると、きらきらと光る糸が二人を囲むように大地に輪を描く。

「!?」
「お前」
「生憎と、静止は聞けないわ。一つ借りがありますから」

門守でなく、貴方に―艶やかな微笑みを向けられて、融は目を瞬かせた。
足元を浸す水に驚けば、小さな囁きが届く。

「狐に、宜しくお伝えくださいな。融殿」



突然の浮遊感は数秒で、目を開けば其処は見慣れぬざわめきの中だった。
周りで好きなように騒いでいるのは、人のようで人で無いもの。
融の持つ、稀なる力の捉える異形のモノたち。

「!?」
「騒ぐな。...やってくれたな、女郎蜘蛛」

口を塞がれ、耳元に聞きなれた声がした。一人ではないことに、融は小さく安堵する。

「輔、此処」
「百鬼夜行の終着点、だろうな」
「あれ?門守だッ」

不意に雑じった子ども特有の高い声に振り向けば、輔に飛びつく少年が見えた。

「何でいるの?」
「雨童。お前また女郎蜘蛛に渡しただろう」

あの水−呆れたような輔の言葉に、子どもはキョトンとしてからあぁと頷く。

「うん。この前...あ。もしかして渡されちゃったの?なん...あ―ッ」
「うお!?なんだ?」

不意に此方に顔を向けた子どもが指を指して叫んだ。ギョッとする融に、輔は小さく息をつく。
気づけば多くの目が二人を捕らえていた。

―...ヒト?
―どうしてヒトが
―なぜ

ざわめく中を輔がスイと前に出て膝を折る。

「御前を騒がせたこと、此処に深くお詫び申し上げる。我ら奉納を拝見したく詣でた次第。
境を越えしこと、軽率であったと咎められても致し方ない場であり、返す言葉もなかれど願わくは年一度なる神楽を是非にこの目で」
「能書きは良いよ、門守」

穏やかな声が不意に輔の口上を遮った。人に良く似た青年は、輔の視線を捕らえて笑う。

「久しいね、門守」
「覚」

ぽつりと輔が零した言葉は、聞いたことの無いような感情が雑じっていた。
まじまじと彼を見れば、青年はその視線に気づいたのか此方を向いてくすりと微笑む。

「はじめまして。女郎蜘蛛を助けた人間。門守は僕を覚と呼ぶ。人の心を読むことができる」

妖、と君たちはいうのかな―その言葉に驚いたように目を見開けば、彼はすうと眼を細めた。

「本当だよ。そう、門守とは知り合い、というのかな。最近は会っていなかったけど」
「え」

輔とは知り合いなのか―確かに今、そう考えていて。すたすたと歩みよる青年は無造作に首に手をかけた。

「覚」

輔の声を気にかけることもなく、青年は融の視線を捕らえる。

「怖い?僕は簡単に君を」
「それって、重くない?」
「え?」

キョトンと問えば、彼は初めて表情を崩した。人形のようだったものに、命が宿ったようだった。

「いや。あの、人間て考えること基本混沌だろ?わかると重いし、苦しくないか?」

あ、人間の俺が聞くのは変?―首を傾げると、途端に彼は手を離してくすくすと楽しそうに笑った。

「え?あれ?」
「覚、そいつはお前の物差しで図れるような奴ではないぞ」
「みたいだね」

輔の言葉に、青年は笑いを収めて視線を合わせる。

「面白いね。彼女が甘んじて名前を受けたわけだ」
「へ?」
「庭にいた蜘蛛に名前をつけただろう?」

覚えてないかな?―青年の言葉に、融はああッと声を上げた。


一週間ほど前だ。その日は酷い残暑で、庭石にぐったりした蜘蛛を見つけたのだ。
『存在を強く認めることは力を与えることに繋がる』不意に輔の言葉が蘇って、気づいたら言葉を紡いでいた。

「お前は今から笹蟹の笹な。頑張って生きろよ、笹」

名前は呪。良くも悪くも自分という生を繋ぎ止めるための大切な呪文だ。
自らが認めれば、ただの言葉の羅列も立派な名前になる。


「それが借りか」
「え?あれ女郎蜘蛛?さっきの女の人!?」
「人間。僕にも名前をくれないかい?」

あっさりした輔の横で慌てる融に、青年はもっと驚くようなことをさらりと告げる。
妖に名前をつけること。それは存在を認めると同時に、その存在を縛ること。
それは、命を握ることに等しいから。

「はぁ!?」
「いい暇つぶしになりそうだ」
「え―ずっる―いッ。ボクも欲しいッ」

輔の横で子どもがハイハイと手を上げた。

「え。いや。ちょっ」
「彼女にはつけたのに?」
「それは」
「いい加減にしたらどうだ」

呆れたような言葉とともに、輔が融の前に立つ。

「門守に言われる筋合いは無いと思うけど」
「否。門守の言うとおりぞ」

挑むような青年の言葉を遮ったのは、聞き覚えの無い凛とした声だった。

「そこなるヒトが何をしに来たかくらい、解らぬお主らでもあるまい?わが眷属の舞いを身に来たのだぞ。今宵は静かにしておれ」

雪のような着物に京緋の帯が良く映える。女の金色の髪が風に揺れた。

「すまぬの。じき始まる」
「えと」
「天狐だ」

輔の呟きに彼女はくすりと笑う。

「いつもあの子が世話になっておる。今は...“白亜”だったかの?あの子によう似合う名じゃ」
「え?白亜のこと、知って」
「彼女は統べる側だからね」

仕方ないな―肩を竦めた青年が小さく呟く。

「今日は大人しく引き下がろうか」
「またね―」

ふわりと周りから人影が消えた。

「え?あれ?」
「ゆっくり見てゆくが良い」

全ての人影が消え、慌てる融の袖を輔が引く。

「黙っていろ」

それは、何の前触れもなかった。



唐突な鈴の音
闇に揺れるのは辰砂の衣
風を纏った五色の長帯
銀糸の入った組紐に結われた鈴が
人影が舞うたびに世界を詠う
笛や琴
笙の聲が彩る

揺れる
揺れる



ひらり
ひらり



揺れる
揺れる



息を零すことも躊躇われるほどの神楽は唐突に闇に飲まれた。



「輔」
「?」

自分が紡いだとは思えないくらい固い声音が耳朶を揺らす。
知っているはずの存在は、酷く遠く思えた。舞う白亜。人には到底真似出来ない神楽。
いくら姿が人に近くとも、彼らは異形。

「白亜は、人じゃないんだよな」

もともと其れは知っていることだった。けれど、知っていることは、解っていることと同一ではないのだ。

「融」
「忘れてる、つもりはなかったんだけどな」

聴こえないくらい小さく呟いて、融は息をつく。人と妖。どんなに姿が似ていても同一ではないのだ。
見えても。近くても。

「おい」
「帰ろうぜ」

くるりと輔を振り向いたとき、融はいつもの声に戻っていた。